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真の知は「無言」である

事物における本質を知るには、言うまでもなく、幾多もの試練を乗り越え、探究者自身の力で思索に思索を重ねる必要があります。

本質(essence)は、決して、自ら、探究者に接近することはなく、理性的存在者である探究者自身が、”極めて積極的に”それを探究し続けない限り、その境地(本質的境地)に到達することは不可能です。

積極的に歩み寄ってくる「本質」(本質らしき本質、言葉を換えれば、本物を装った”偽者”)は、大抵の場合、自ら探究者に接近し、探究者を惑わし、”本来、探究者が求めている本質とは全く異質のもの”を与えようとします。

例えば、資本主義経済社会においては、企業が、営利追求のみを目的とし、顧客に対して愛情も誠意もない商品・サービスを売ろうとする行為は、言うなれば、それは、「”本物を装った偽者”の押し売りそのもの」として捉えることができます。

本質的見地から述べるならば、この経済社会は、右も左も、「本物を装った偽者が交錯する『虚像社会』」です。その虚像社会において、事物における本質を見極め、真に価値のある事物、あるいは、境地に到達することを目指すならば、世の中に蔓延る安易なネオン・雑音に惑わされることなく、常に「深遠なる思索」(profound consideration)を試みることが必要不可欠となります。

真の知は「無言」です。それ故、知の探究者は、永遠と続く暗闇の中で、自分自身の力でそこに到達しなければなりません。

西洋文明社会では、人間の「理性」(神から与えられた理性、reason given by God)とは、「真の知に到達するために賦与されたもの」と考えられています。「理性の存在についてそれをいかに捉えるか」、この問題は、常に、理性的存在者であろうとする人間にとって極めて重要な問題、且つ、本質的な問題です。