■ご参考
ソクラテスの「無知の知」
概して、人間という動物は、少しばかり何かを学び、それによってある程度の評価を得ると、さぞたくさん知っているかのように人
前で振舞いたくなる習性を持っているといえる。言うまでもなく、どんな分野においても、ある程度まで極めるための「学びの道」を
歩むというそのプロセスは決して簡単なものではない。だが、人間は、時として、実に愚かな考え方をする。「自分には限られた知
識しかない」という事実は自分自身が一番良く知っている事実であるが、どんな人間でも、時には「自分は何でも知っている」とい
うような“錯覚”に陥ることがある。しかし、「自分は何でも知っている」ということを軽々しく言えるということは、「実は何も知らな
い」あるいは「知ってはいるが、実はそこそこに知っているだけだ」という証となってしまう。
古代ギリシア時代における偉大な哲学者、ソクラテス(Sokrates, 470?-399 B.C.)は、「知」を愛し、「知」を求めることに自分の人生
を託した。古代ギリシア語においては、「哲学」(philosophia)という言葉は、「知」(sophia)を「愛する」(philein)という意味であるが、こ
のような”知を愛すること”、即ち「愛知」はソクラテスによって確立されたものであると伝えられている。ソクラテスは、「助産術」と
呼ばれる問答方式で周囲のソフィストたちに本当の「知」を認識させることに努めた。しかし、ソフィストたちは自分たちの無知をソ
クラテスによって悟らされてしまうため、自己反省のできない者達からはひどく嫌われた。ソフィストの中には、少しばかりの知識
があるだけで、さぞ自分が“偉い人物”であるかのような錯覚に陥り、自分自身に対するプライドばかりが高い人物が多かった。
当時のギリシアでは学問をするというのは贅沢なことであったので、大衆は“学問をする人”を敬う傾向が強かったが、ソフィスト
といえども決して万能な存在者ではない。ある程度、学問を修めたとしても、その知識は決して万能なものではない。
ソクラテスは、「自分は何でも知っている」と自負する者は、実は「何も知らない者」であり、人間は、自らをそう思っている間は、
決して「真の知」には到達できないと力説した。「“自分は本当は何も知らない”という自分自身の“無知”に気づくことが真の知へ
の扉の前に立つことである」というこの考え方は、古代ギリシア時代のみではなく、21世紀の現代社会においても十分応用でき
る考え方である。
<参考図書> 生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)。
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