音は、音であって音ではない
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■音は、音であって音ではない
november 27, 2011 reading assingment.pdf
マナーとデリカシーにおける相違
一般的に、国際人として大きく成長を遂げる上で重要な要素の一つとして考えられていることは、「国際社会で通用するマナーを身に付ける」ということです。
日本には、マナーを教える学校が多数あります。マナーは、無論、他者の面前で妥当な振舞い方をする上で必要なものでしょう。しかし、実際、現実の国際コミュニケーションにおいて、”マナーそのもの”が妥当な方法で実行されても、それだけで、目の前の相手とのコミュニケーションがスムーズになるとは言えません。本稿では、「原点に戻る」という意味で、ここで再度、「マナー」について考えてみたいと思います。
人間コミュニケーションにおける「マナー」(manner)とは、本来、振舞い方、態度、行儀、作法、習慣等を指しますが、それらは、必ずしも、”世界共通のもの”であるわけではなく、通常は、特定の国、地域、文化圏において行われるものです。具体的に述べるならば、西洋文明社会で言うならば、イタリアにはイタリアのマナーが存在し、イギリスにはイギリスのマナーが存在します。一方、東洋文明社会においては、中国には中国のマナー、インドネシアにはインドネシアの
マナー、そして、言うまでもなく、日本には日本のマナーが存在します。つまり、今ここでマナーについて厳密に述べるならば、「特定のマナー」が行われるその物理的空間とは、通常は、「限られた場所」(特定の国、地域、文化圏等)であるわけです。
では、受講生の皆さんにおいては、マナーを学ぶことに加え、世界に通用する国際人として自分を磨いていく上で一体何が必要となるのでしょうか。それは、「人間としての”デリカシー”を磨く」ということです。
「デリカシー」(delicacy)とは、優雅さ、繊細さ、優美、思いやり、心遣い等を指します。デリカシーとは、総じて、「他者の感情、あるいは、感覚との接触における”細やかな気づき・心配り”」について指すものであり、これはまさに、「世界に存する文明・文化を超越して存在する”人間としての繊細な感覚”」と言えるものです。
概して、”国際人”を目指す人々は、”目に見える作法としてのマナー”にばかり目を奪われ、より重要とされるべきもの、即ち、「デリカシーの重要性」に対して盲目になる傾向にあります(実際、教育機関においても、詳細にわたってデリカシーの重要性を教える学校は皆無に等しいでしょう)。
デリカシーとは、私の定義では、「地球に存する一個の個人として備えるべき、”他者の感情・感覚との接触における細やかな気づき・心配り”」であり、それは、決して目に見えるものではなく、(1)「自分の理性・感性」と(2)「他者の理性・感性」との相互コミュニケーションにおいてお互いに感じ取ることができる”極めて繊細な代物”です。
デリカシーとは、特定の国・地域・文化圏等に関係なく、一個の個人として養い、現実の生活において、日々実行していくべき「人間コミュニケーションにおける”真髄”」(the "quintessence" of human communication)と言えるもの。
私たちは、日々の生活において、しばしば、「マナーは申し分ないが、デリカシーに欠ける」という人を見かけます。
マナーとは、”単に上辺だけ上品に振舞えばそれで十分”というわけではありません。言うまでもなく、自分の目の前に存在する相手に対する細やかな気づき・心配り(デリカシー)がなくして、「真の意味での”エレガンス”(優雅、優美、
品格)」を実現することは不可能となります。
今ここで再度、迎える一日一日において真の意味で価値ある人間コミュニケーションを図っていくという「”理性的”
大前提」("rational" major premise)の下、再度、「マナーとデリカシーにおける相違」(the difference between the two,
manner and delicacy)について深い思索を試みてください。深い思索を試みることにより、やがて、「人間コミュニケーションにおける”理想郷”」("utopia" of human communication)の境地に到達することができます。
「察し」の概念
・・・日本語と英米語における対比
美しく、そして、優雅な言語表現を誇る日本語。日本語は、”美しい様相”を誇る反面、その一方で、私たち自身、日常生活において「デリケートな日本語を使う難しさ」に苦悩することもあります。
私は、海外に在住していた頃、現地在住の日本人から、「日本語の”察する”に該当する英語表現を教えてください」という質問を良く受けました。「察する」に該当する英語と言えば、大抵の場合、guess, suppose, imagine等を思い浮かべるのが普通でしょう。しかし、例えば、guessにおける言葉の概念は、「推察する、推測する」です。また、supposeの場合も、ほぼ同じ意味合いがそこに内在しています。
結論を急ぐならば、日本語の「察する」は、英語においては、「guess, suppose等における、”曖昧な想像”、あるいは、
”明確でない推察”を意味しているわけではない」ということです。では、この「察する」という動詞について、”比較文化的考察”を通してその概念を英語で表現するならば、一体どのような動詞を用いることが妥当なのでしょうか。
私の考えでは、日本語の「察する」は、英語の"consider"に該当すると捉えます。無論、英語のconsiderは、通常、
日本語の「考える、熟慮する、考慮する、等」として解釈されています。しかし、ここで一つ、留意するべき点があります。それは、英米社会において人々がこのconsiderという動詞を用いるとき、1)「理性的に察する」、2)「(理性的存在者として)慎重に察し、合理的に判断する」という意味合いで用いる場合があるということです。
日本語における「察し」の概念は、実際のところ、日本の文化・習慣との関係において、歴史的に相当深い相関関係がそこに秘められています。日本語における「察する」は、1)「おしはかって考える」、2)「思いやる」という意味。「おしはかって考える」とは、「すでにある事実・状況をしっかりと把握・理解し、理性的に考え、判断する」ということです。つまり、この動詞「察する」は、単に、「想像する、推察する」という意味ではないのです。
受講生の皆さんが日本語の「察する」を英語で表現するときは、是非、以上の点を十分に認識・理解し、「日本語における”察し”に内在する深遠なる意味合い」を損ねないように注意を払っていただきたいと願っています。
私利私欲を捨てた心の状態で英語と向き合う人が「品格のあるエレガントな英語への道」を歩むことができる
・・・エレガンスは、常に、「自分と他者の間」にあるべきもの
英会話道場イングリッシュヒルズは、理性と感性を駆使し、「国際的教養・品格を備えた英日バイリンガル」を養成する、国内外で唯一の英会話教室です。「国際的教養・品格を備えた英日バイリンガル」として劇的に変貌を遂げるには、まず第一に「地球に存する一個の人間として自分自身を捉える」ということが、当教室において必要とされるすべての学習の土台としてその役割を演じてくれます。
今回の特講においては、その一方、もう一つ、今後の学習における極めて重要な土台について述べたいと思います。
それは、「私利私欲を捨てる」ということ。
「私利私欲」、・・・・・普通の人であれば、自分が"自分"である以上、「私利私欲」「損得勘定」という"欲"は必ずあるものです。しかし、そうした個人としての"欲"が先行し、「他者の隙を見ては、取れるものは何でも取ってやろう」、「自分だけ得をしよう」という貧しい心持で毎日を過ごしていると、「本来、人間として大切にするべきこと」に対して鈍感、あるいは、盲目な状態となってしまいます。
受講生の皆さん、今回は、「国際的教養・品格を備えた英日バイリンガル」として自分を大きく成長させるという問題意識の下、今再び、静かに自分の心を落ち着かせ、静寂の中で自分自身を見詰め直してみてください。静寂の中で、しっかりと自分自身について振り返ってみることにより、必ず、「本当にあるべき自分自身の姿」について見えてきます。
「"品格のあるエレガントな英語"とは一体どのような英語を指すのか」、「品格のあるエレガントな英語が喋れるようになるにはどのような心のステージを構築するべきなのか」、・・・・今、再び、英語という言語について捉え直し、「英語」を
哲学し、「自分自身」を哲学してみてください。
しばしば、私は、受講生の皆さんに明言しています。本当の意味での「エレガンス」とは、自分自身がエレガントになって自己満足に浸るためにあるのではなく、一にも二にも、「今現在、自分の目の前にいる人間のため」、即ち、「他者に対して不快感を与えることなく、より良いコミュニケーションを図るため」にあるのです。
エレガンスにおける真髄は、常に、「自分と他者の間」に存在するもの。英語スピーカーにおいてどのように英語についての知識があろうとも、英語を喋るすべてのプロセスにおいて、「自分と他者の間においてエレガンスを醸し出す」という
"心の贅沢"を維持することが必要不可欠とされるのです。
「国際レヴェルの英語イントネーション」への道のり
・・・魂で発する"理性的イントネーション"を基盤として
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intonationが備える偉大なパワーと役割について・・・オペラでの経験を手掛かりとして
<part 1>
本稿においては、「英語のイントネーション(抑揚)が備える偉大なパワーと役割」について述べたいと思います。本稿は、2つのパートに分けます。今回は、パート1として、まず第一に、受講生・K.H.さんが銀座書斎で経験したイントネー
ションにおける価値ある気づきについてご紹介します。



次回のパート2では、イントネーションの習得方法について、わたくし生井利幸が詳しく説明していきます。受講生の皆さんを、一般の文法書では決して知ることのできない、「深遠なる、素晴らしい英語の世界」にご案内しますので、是非、
ご期待ください。
英字新聞を読むことが国際人への登竜門ではない
ご承知のように、この日本でも、海外の主要な新聞を読むことができます。例えば、アメリカのThe New York TimesやThe Washington Post、あるいは、日本の英字新聞であればThe Japan Timesなど。
英字新聞を読む、という行為は、「英語で時事問題に接する」「英語に慣れる」という趣旨ではそれなりに意味のある
行為であるに違いありません。しかし、日本で英字新聞を読む人々のほとんどは、実際は、記事の内容を十分に理解することなく、ただ単に「英字新聞を手に取っている」という表面的なイメージに自己陶酔・自己満足し、現実には、"地に足の着いた読み方をしていない"と言わざるを得ません。
率直に述べるならば、この日本において、一般の普通教育を受けた日本人が英字新聞を読むときは、1)「辞書の使用」と2)「ノートづくり」は必須です。無論、読み進めている最中において、わからない単語・英語表現に遭遇したときには、随時、それら一語一語について、辞書で詳しく調べ、ノートに整理していくということが、記事の内容を理解する上において最低限必要となります。
この日本で英字新聞の読み方として一般的に言われていることは、「大量の英語長文に慣れるには、わからない単語に遭遇したとき、その都度辞書を引くということでは時間がかかりすぎる。大切なことは、常に速読を心がけ、未知の単語にとらわれることなく大まかに全体の流れ・大意を掴むことだ」ということです。しかし、私は、長年において、日本の英語学習者に対してこの考え方とは異なる考え方を伝授し続けています。
本稿においても、私は、はっきりと断言します。
<1>
英語に慣れるという趣旨で、どのように長い年月をかけて大量の英語を流し読みしても、「その都度、わからない単語や表現について丁寧に辞書で調べ、それをノートにまとめる」という学習経験を積み重ねない限り、一生涯、英字新聞が
スラスラと読めるようになることはありません。
<2>
英語が完成していない人が、電車やカフェで英字新聞を広げ、たくさんの記事を流し読みしても、一向に、「真の意味での実用英語力」が養われることはありません。
<3>
わからない単語・表現は、それを「自分自身の"手"」で辞書で調べ、「自分自身の"手書き"」で丁寧にノートに整理することなく、その単語・表現を自分のものとすることは不可能です。
日本の電車やカフェには、「"自称"・バイリンガル」と勘違いしている"頗るfakeな英語学習者"がいます。そうした人々は、英語に対する憧れの気持ちから、「人前で英字新聞を手にするとカッコいい」という勝手な思い込みから、実際は
記述内容について全くわからないにもかかわらず、電車・カフェ等で、「人前で英字新聞を読んでいる"ふり"」をするのです。そのような人は、英字新聞を読んでいる"その自分の姿"を他人が見て、「あの人、英字新聞を読んでいる。さぞ、
英語がペラペラなんだろうな!」と想像されることに喜びを感じ、「そうした喜びに陶酔することである種の自己満足感を得る」という精神構造がその人の心の中にあるわけです。
この種の精神構造は、言うなれば、「"島国"日本に蔓延る特有の精神構造」といえるものです。実際には、このような
精神構造は、海外においては"滑稽な精神構造そのもの"として捉えられるだけのものです。
この極めて滑稽な精神構造について、「"島国"日本における近代史」という観点から述べるならば、1853年のアメリカ合衆国のペリー来航当時から始まった幕末の混乱期から1868年の明治維新への推移、そしてその後、明治・大正・
昭和における日本の近代化政策において台頭した「西洋文化崇拝主義」を起因とする"病的な精神構造"にその源泉をうかがうことができるといえます。日本の近代化を図るプロセスにおいて「西洋の文化を必要以上に崇拝する」という極めて偏狭な国際感覚は、日本の国際化を推進するどころか、実際は、"その逆の方向性"へと日本人を進ませてしまいました。勇気を持って勇敢に国際社会に対して独自のアイデンティティーを主張しようとしないネガティブな風潮から脱却できずにいる日本人は、これからの国際社会において、さらに、「過酷な道のり」を歩む命運を背負っているといえます。
「日本人における"英語に対する病的コンプレックス"をどのように解消させるか」、この問題は、私自身、海外在住中から日本社会に対してメッセージを発信し続けてきた重要な問題の一つですが、実際、この問題は相当根の深い問題であり、「たった一人で本を出版し、それを一般の人々に読んでもらう」という程度のことでは、何ら、解決の方向に向くようなことはありません。
この問題は、"言語"としての英語の問題というよりは、まさに、「日本における、均整のとれた国際感覚の構築」という大きな問題を視野に入れた総合的な対策が必要不可欠となります。そのための第一歩として考えられることは、「今後の国づくりを、どのような精神基盤を"礎"・"根幹"として進めていくべきか」という日本人としての根本問題について、国を支える国民一人ひとりにおいて、それぞれが、それぞれの立ち位置において深く哲学する風潮を創造していくことにしか、その道を実現する方法はありません。
以降においては、前述した問題意識に基づき、一般の英語学習者において最も妥当と思われる英字新聞活用法を
ご紹介します。
はじめに、最も基本となる以下の事項についてしっかりと理解してください。
1 英字新聞を読む際において、わからない単語・表現等は、必ず辞書を引く(わからない単語は、それを放置した
ままにしておくと、たとえ何年、英字新聞を読み続けようと、わからないままの状態が続く)。
2 辞書で引いた単語は、必ずノートにまとめる。せっかく単語を辞書で引いても、それを実際に手書きでノートに
整理しない限り、決して自分のものになることはない。
言語は、それが何語であっても、実際に苦労して書くことなしに習得することは不可能である(例えば、日本で
生まれた日本人であっても、日本語を学ぶために、義務教育の期間において詳細に"国語"を学び、何年もの
間、漢字の学習をして日本語を学ぶのが普通である。日本で生まれた日本人であっても、そうした学習経験を
積み重ねることなしにしっかりとした日本語を習得することは不可能である)。
3 英字新聞の記事そのものは極めて表面的な記述であるため、「記事そのものだけを何年読み続けていても、
本当の意味での国際的教養・見識を養うことはできない」という現実を認識する。
前述の事項についての理解を深めたことを前提として、以下において、さらに話を進めます。
言うまでもないことですが、新聞の内容は、それが何語で書かれていても、「事物における表面的な記述」に過ぎません。例えば、外交問題についての記事を例として挙げるならば、「何年の何月何日、ワシントンD.C.において、アメリカとフランスの両首脳が会談を行い、・・について議論。両首脳の記者会見によると、・・・・・という見通しである」という記事は、言うなれば、単に、「・・という事実があった」という表面的事実について記述されているだけのことです。本来、新聞の役割は「事実を伝える」という情報伝達行為をミッションとしているため、それはそれとして、その役割を果たしているといえます。しかし一方、新聞を読む読者側の立場から述べるならば、事実を表面的に知るだけで国際的教養・見識を養うということは"到底不可能"と明言しなければなりません。
国内の動向、そして、世界の動向を知り、それを客観的に把握し、「より良い近未来」について模索するには、ただ単に、表面的事実のみを知るだけでなく、「人類」(mankind)という大きな立ち位置から、実に多種多様な分野・観点から考察し、深い思索を試みる必要性がそこに存在します。
そのためには、まずは、学問における幅広い知識が必要不可欠となります。学問における三大潮流である人文科学(human sciences)、社会科学(social sciences)、自然科学(natural sciences)について総合的に学習・理解を深め、その他、"学際研究"(interdisciplinary study)として、様々な具体的問題について分析・解明していくことが求められます。
そして、さらには、「"人間存在"(human existence)そのものの真髄」を知る手掛かりとして、文化・芸術・思想・宗教などの学習・理解も必要となります。
上記における、それらすべての分野を理解する上で基盤となる分野は、言うまでもなく、「哲学」(philosophy)です。西洋文明社会、そして、東洋文明社会においても、「諸学の基礎は哲学にあり」というと捉え方は、まさに、"普遍的捉え方"
といえるもの。結局のところ、古今東西を問わず、どのような人間がどのような職業に就いていようとも、真の意味での
国際的教養・見識を養いたいのであれば、まず第一に、哲学を学ぶことが必要不可欠となります。
最後に、わかりやすくまとめます。
新聞は、単なる表面的事実が記載されたもの。新聞の情報を「教養」に直結させるには、まず第一に、すべての学問
分野の基盤をなす「哲学」をしっかりと学び、それと並行して、人類史・世界史の潮流を見据えながら様々な具体的
分野・問題について学んでいくということがポイントとなります。
さらに、哲学の重要性について具体的に述べるならば、以下の如きとなります。
1 「哲学・理念を知らずして、どのように表面的知識・情報を得ようとも、何らの本質をも見極めることはできない。」
2 「土台を築くことなく慌ただしく積み上げた積木は、ほんの少しの振動で大崩壊する。」
3 「技術は"技術"。どのように技術に長けていても、真の意味で人類の利益・幸福に役立たせるには、その技術
者自身が、深く哲学することが必要不可欠である。」(例えば、医学の研究に優れた医師であっても、"医術"
ばかりにとらわれ、理性を介して「人間の尊厳」(human dignity)という観点から深遠なる思索を試みない限り、
真の意味での"医療の理想郷"に到達することは不可能である。)
これらについての"妥当性"、そして、"真実性"は、理性を介して、「人類が歩んできた歴史の推移」について達観している人にとっては、常に、"真実そのもの"といえることです。
本稿を読む読者の皆さん、是非、以上のことについて自分なりに深い思索を試み、真の意味での国際的教養・見識を養うためのヒントとしてください。大切なことは、表面的事実ではなく「本質」。どのような人間においても、本質を知るためには、実に過酷な道のりを歩むことになりますが、人間に与えられた天賦的理性を生かすためには、勇気を持って勇敢にその道を選択し、一滴一滴汗を流しながら前に進むしかありません。これまでの人類が試みてきた「"知"への道のり」は、まさに、そうした”困難との闘いの歴史”なのです。
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