2012年9月30日(日)、英会話道場イングリッシュヒルズのウェブサイトは、全面リニューアルを行いました。
         新ウェブサイトは、以下をクリックするとご覧いただけます。











     

















音は、音であって音ではない

原稿データは、以下のPDFをご覧下さい。

   ■音は、音であって音ではない
    november 27, 2011 reading assingment.pdf







マナーとデリカシーにおける相違

一般的に、国際人として大きく成長を遂げる上で重要な要素の一つとして考えられていることは、「国際社会で通用するマナーを身に付ける」ということです。

日本には、マナーを教える学校が多数あります。マナーは、無論、他者の面前で妥当な振舞い方をする上で必要なものでしょう。しかし、実際、現実の国際コミュニケーションにおいて、”マナーそのもの”が妥当な方法で実行されても、それだけで、目の前の相手とのコミュニケーションがスムーズになるとは言えません。本稿では、「原点に戻る」という意味で、ここで再度、「マナー」について考えてみたいと思います。

人間コミュニケーションにおける「マナー」(manner)とは、本来、振舞い方、態度、行儀、作法、習慣等を指しますが、それらは、必ずしも、”世界共通のもの”であるわけではなく、通常は、特定の国、地域、文化圏において行われるものです。具体的に述べるならば、西洋文明社会で言うならば、イタリアにはイタリアのマナーが存在し、イギリスにはイギリスのマナーが存在します。一方、東洋文明社会においては、中国には中国のマナー、インドネシアにはインドネシアの
マナー、そして、言うまでもなく、日本には日本のマナーが存在します。つまり、今ここでマナーについて厳密に述べるならば、「特定のマナー」が行われるその物理的空間とは、通常は、「限られた場所」(特定の国、地域、文化圏等)であるわけです。

では、受講生の皆さんにおいては、マナーを学ぶことに加え、世界に通用する国際人として自分を磨いていく上で一体何が必要となるのでしょうか。それは、「人間としての”デリカシー”を磨く」ということです。

「デリカシー」(delicacy)とは、優雅さ、繊細さ、優美、思いやり、心遣い等を指します。デリカシーとは、総じて、「他者の感情、あるいは、感覚との接触における”細やかな気づき・心配り”」について指すものであり、これはまさに、「世界に存する文明・文化を超越して存在する”人間としての繊細な感覚”」と言えるものです。

概して、”国際人”を目指す人々は、”目に見える作法としてのマナー”にばかり目を奪われ、より重要とされるべきもの、即ち、「デリカシーの重要性」に対して盲目になる傾向にあります(実際、教育機関においても、詳細にわたってデリカシーの重要性を教える学校は皆無に等しいでしょう)。

デリカシーとは、私の定義では、「地球に存する一個の個人として備えるべき、”他者の感情・感覚との接触における細やかな気づき・心配り”」であり、それは、決して目に見えるものではなく、(1)「自分の理性・感性」と(2)「他者の理性・感性」との相互コミュニケーションにおいてお互いに感じ取ることができる”極めて繊細な代物”です。

デリカシーとは、特定の国・地域・文化圏等に関係なく、一個の個人として養い、現実の生活において、日々実行していくべき「人間コミュニケーションにおける”真髄”」(the "quintessence" of human communication)と言えるもの。

私たちは、日々の生活において、しばしば、「マナーは申し分ないが、デリカシーに欠ける」という人を見かけます。
マナーとは、”単に上辺だけ上品に振舞えばそれで十分”というわけではありません。言うまでもなく、自分の目の前に存在する相手に対する細やかな気づき・心配り(デリカシー)がなくして、「真の意味での”エレガンス”(優雅、優美、
品格)」を実現することは不可能となります。

今ここで再度、迎える一日一日において真の意味で価値ある人間コミュニケーションを図っていくという「”理性的”
大前提」("rational" major premise)の下、再度、「マナーとデリカシーにおける相違」(the difference between the two,
manner and delicacy)について深い思索を試みてください。深い思索を試みることにより、やがて、「人間コミュニケーションにおける”理想郷”」("utopia" of human communication)の境地に到達することができます。







「察し」の概念
 ・・・日本語と英米語における対比

美しく、そして、優雅な言語表現を誇る日本語。日本語は、”美しい様相”を誇る反面、その一方で、私たち自身、日常生活において「デリケートな日本語を使う難しさ」に苦悩することもあります。

私は、海外に在住していた頃、現地在住の日本人から、「日本語の”察する”に該当する英語表現を教えてください」という質問を良く受けました。「察する」に該当する英語と言えば、大抵の場合、guess, suppose, imagine等を思い浮かべるのが普通でしょう。しかし、例えば、guessにおける言葉の概念は、「推察する、推測する」です。また、supposeの場合も、ほぼ同じ意味合いがそこに内在しています。

結論を急ぐならば、日本語の「察する」は、英語においては、「guess, suppose等における、”曖昧な想像”、あるいは、
”明確でない推察”を意味しているわけではない」ということです。では、この「察する」という動詞について、”比較文化的考察”を通してその概念を英語で表現するならば、一体どのような動詞を用いることが妥当なのでしょうか。

私の考えでは、日本語の「察する」は、英語の"consider"に該当すると捉えます。無論、英語のconsiderは、通常、
日本語の「考える、熟慮する、考慮する、等」として解釈されています。しかし、ここで一つ、留意するべき点があります。それは、英米社会において人々がこのconsiderという動詞を用いるとき、1)「理性的に察する」、2)「(理性的存在者として)慎重に察し、合理的に判断する」という意味合いで用いる場合があるということです。

日本語における「察し」の概念は、実際のところ、日本の文化・習慣との関係において、歴史的に相当深い相関関係がそこに秘められています。日本語における「察する」は、1)「おしはかって考える」、2)「思いやる」という意味。「おしはかって考える」とは、「すでにある事実・状況をしっかりと把握・理解し、理性的に考え、判断する」ということです。つまり、この動詞「察する」は、単に、「想像する、推察する」という意味ではないのです。

受講生の皆さんが日本語の「察する」を英語で表現するときは、是非、以上の点を十分に認識・理解し、「日本語における”察し”に内在する深遠なる意味合い」を損ねないように注意を払っていただきたいと願っています。







私利私欲を捨てた心の状態で英語と向き合う人が「品格のあるエレガントな英語への道」を歩むことができる
 ・・・エレガンスは、常に、「自分と他者の間」にあるべきもの

英会話道場イングリッシュヒルズは、理性と感性を駆使し、「国際的教養・品格を備えた英日バイリンガル」を養成する、国内外で唯一の英会話教室です。「国際的教養・品格を備えた英日バイリンガル」として劇的に変貌を遂げるには、まず第一に「地球に存する一個の人間として自分自身を捉える」ということが、当教室において必要とされるすべての学習の土台としてその役割を演じてくれます。

今回の特講においては、その一方、もう一つ、今後の学習における極めて重要な土台について述べたいと思います。
それは、「私利私欲を捨てる」ということ。

「私利私欲」、・・・・・普通の人であれば、自分が"自分"である以上、「私利私欲」「損得勘定」という"欲"は必ずあるものです。しかし、そうした個人としての"欲"が先行し、「他者の隙を見ては、取れるものは何でも取ってやろう」、「自分だけ得をしよう」という貧しい心持で毎日を過ごしていると、「本来、人間として大切にするべきこと」に対して鈍感、あるいは、盲目な状態となってしまいます。

受講生の皆さん、今回は、「国際的教養・品格を備えた英日バイリンガル」として自分を大きく成長させるという問題意識の下、今再び、静かに自分の心を落ち着かせ、静寂の中で自分自身を見詰め直してみてください。静寂の中で、しっかりと自分自身について振り返ってみることにより、必ず、「本当にあるべき自分自身の姿」について見えてきます。

「"品格のあるエレガントな英語"とは一体どのような英語を指すのか」、「品格のあるエレガントな英語が喋れるようになるにはどのような心のステージを構築するべきなのか」、・・・・今、再び、英語という言語について捉え直し、「英語」を
哲学し、「自分自身」を哲学してみてください。

しばしば、私は、受講生の皆さんに明言しています。本当の意味での「エレガンス」とは、自分自身がエレガントになって自己満足に浸るためにあるのではなく、一にも二にも、「今現在、自分の目の前にいる人間のため」、即ち、「他者に対して不快感を与えることなく、より良いコミュニケーションを図るため」にあるのです。

エレガンスにおける真髄は、常に、「自分と他者の間」に存在するもの。英語スピーカーにおいてどのように英語についての知識があろうとも、英語を喋るすべてのプロセスにおいて、「自分と他者の間においてエレガンスを醸し出す」という
"心の贅沢"を維持することが必要不可欠とされるのです。







「国際レヴェルの英語イントネーション」への道のり
  ・・・魂で発する"理性的イントネーション"を基盤として

   ■原稿データは、以下のPDFをご覧下さい。
     20110528 (1).pdf







intonationが備える偉大なパワーと役割について・・・オペラでの経験を手掛かりとして
<part 1>

本稿においては、「英語のイントネーション(抑揚)が備える偉大なパワーと役割」について述べたいと思います。本稿は、2つのパートに分けます。今回は、パート1として、まず第一に、受講生・K.H.さんが銀座書斎で経験したイントネー
ションにおける価値ある気づきについてご紹介します。







次回のパート2では、イントネーションの習得方法について、わたくし生井利幸が詳しく説明していきます。受講生の皆さんを、一般の文法書では決して知ることのできない、「深遠なる、素晴らしい英語の世界」にご案内しますので、是非、
ご期待ください。







英字新聞を読むことが国際人への登竜門ではない

ご承知のように、この日本でも、海外の主要な新聞を読むことができます。例えば、アメリカのThe New York TimesやThe Washington Post、あるいは、日本の英字新聞であればThe Japan Timesなど。

英字新聞を読む、という行為は、「英語で時事問題に接する」「英語に慣れる」という趣旨ではそれなりに意味のある
行為であるに違いありません。しかし、日本で英字新聞を読む人々のほとんどは、実際は、記事の内容を十分に理解することなく、ただ単に「英字新聞を手に取っている」という表面的なイメージに自己陶酔・自己満足し、現実には、"地に足の着いた読み方をしていない"と言わざるを得ません。

率直に述べるならば、この日本において、一般の普通教育を受けた日本人が英字新聞を読むときは、1)「辞書の使用」と2)「ノートづくり」は必須です。無論、読み進めている最中において、わからない単語・英語表現に遭遇したときには、随時、それら一語一語について、辞書で詳しく調べ、ノートに整理していくということが、記事の内容を理解する上において最低限必要となります。

この日本で英字新聞の読み方として一般的に言われていることは、「大量の英語長文に慣れるには、わからない単語に遭遇したとき、その都度辞書を引くということでは時間がかかりすぎる。大切なことは、常に速読を心がけ、未知の単語にとらわれることなく大まかに全体の流れ・大意を掴むことだ」ということです。しかし、私は、長年において、日本の英語学習者に対してこの考え方とは異なる考え方を伝授し続けています。

本稿においても、私は、はっきりと断言します。

<1>
英語に慣れるという趣旨で、どのように長い年月をかけて大量の英語を流し読みしても、「その都度、わからない単語や表現について丁寧に辞書で調べ、それをノートにまとめる」という学習経験を積み重ねない限り、一生涯、英字新聞が
スラスラと読めるようになることはありません。

<2>
英語が完成していない人が、電車やカフェで英字新聞を広げ、たくさんの記事を流し読みしても、一向に、「真の意味での実用英語力」が養われることはありません。

<3>
わからない単語・表現は、それを「自分自身の"手"」で辞書で調べ、「自分自身の"手書き"」で丁寧にノートに整理することなく、その単語・表現を自分のものとすることは不可能です。


日本の電車やカフェには、「"自称"・バイリンガル」と勘違いしている"頗るfakeな英語学習者"がいます。そうした人々は、英語に対する憧れの気持ちから、「人前で英字新聞を手にするとカッコいい」という勝手な思い込みから、実際は
記述内容について全くわからないにもかかわらず、電車・カフェ等で、「人前で英字新聞を読んでいる"ふり"」をするのです。そのような人は、英字新聞を読んでいる"その自分の姿"を他人が見て、「あの人、英字新聞を読んでいる。さぞ、
英語がペラペラなんだろうな!」と想像されることに喜びを感じ、「そうした喜びに陶酔することである種の自己満足感を得る」という精神構造がその人の心の中にあるわけです。

この種の精神構造は、言うなれば、「"島国"日本に蔓延る特有の精神構造」といえるものです。実際には、このような
精神構造は、海外においては"滑稽な精神構造そのもの"として捉えられるだけのものです。

この極めて滑稽な精神構造について、「"島国"日本における近代史」という観点から述べるならば、1853年のアメリカ合衆国のペリー来航当時から始まった幕末の混乱期から1868年の明治維新への推移、そしてその後、明治・大正・
昭和における日本の近代化政策において台頭した「西洋文化崇拝主義」を起因とする"病的な精神構造"にその源泉をうかがうことができるといえます。日本の近代化を図るプロセスにおいて「西洋の文化を必要以上に崇拝する」という極めて偏狭な国際感覚は、日本の国際化を推進するどころか、実際は、"その逆の方向性"へと日本人を進ませてしまいました。勇気を持って勇敢に国際社会に対して独自のアイデンティティーを主張しようとしないネガティブな風潮から脱却できずにいる日本人は、これからの国際社会において、さらに、「過酷な道のり」を歩む命運を背負っているといえます。

「日本人における"英語に対する病的コンプレックス"をどのように解消させるか」、この問題は、私自身、海外在住中から日本社会に対してメッセージを発信し続けてきた重要な問題の一つですが、実際、この問題は相当根の深い問題であり、「たった一人で本を出版し、それを一般の人々に読んでもらう」という程度のことでは、何ら、解決の方向に向くようなことはありません。

この問題は、"言語"としての英語の問題というよりは、まさに、「日本における、均整のとれた国際感覚の構築」という大きな問題を視野に入れた総合的な対策が必要不可欠となります。そのための第一歩として考えられることは、「今後の国づくりを、どのような精神基盤を"礎"・"根幹"として進めていくべきか」という日本人としての根本問題について、国を支える国民一人ひとりにおいて、それぞれが、それぞれの立ち位置において深く哲学する風潮を創造していくことにしか、その道を実現する方法はありません。

以降においては、前述した問題意識に基づき、一般の英語学習者において最も妥当と思われる英字新聞活用法を
ご紹介します。

はじめに、最も基本となる以下の事項についてしっかりと理解してください。

   1 英字新聞を読む際において、わからない単語・表現等は、必ず辞書を引く(わからない単語は、それを放置した
     ままにしておくと、たとえ何年、英字新聞を読み続けようと、わからないままの状態が続く)。

   2 辞書で引いた単語は、必ずノートにまとめる。せっかく単語を辞書で引いても、それを実際に手書きでノートに
     整理しない限り、決して自分のものになることはない。

     言語は、それが何語であっても、実際に苦労して書くことなしに習得することは不可能である(例えば、日本で
     生まれた日本人であっても、日本語を学ぶために、義務教育の期間において詳細に"国語"を学び、何年もの
     間、漢字の学習をして日本語を学ぶのが普通である。日本で生まれた日本人であっても、そうした学習経験を
     積み重ねることなしにしっかりとした日本語を習得することは不可能である)。

   3 英字新聞の記事そのものは極めて表面的な記述であるため、「記事そのものだけを何年読み続けていても、
     本当の意味での国際的教養・見識を養うことはできない」という現実を認識する。

前述の事項についての理解を深めたことを前提として、以下において、さらに話を進めます。

言うまでもないことですが、新聞の内容は、それが何語で書かれていても、「事物における表面的な記述」に過ぎません。例えば、外交問題についての記事を例として挙げるならば、「何年の何月何日、ワシントンD.C.において、アメリカとフランスの両首脳が会談を行い、・・について議論。両首脳の記者会見によると、・・・・・という見通しである」という記事は、言うなれば、単に、「・・という事実があった」という表面的事実について記述されているだけのことです。本来、新聞の役割は「事実を伝える」という情報伝達行為をミッションとしているため、それはそれとして、その役割を果たしているといえます。しかし一方、新聞を読む読者側の立場から述べるならば、事実を表面的に知るだけで国際的教養・見識を養うということは"到底不可能"と明言しなければなりません。

国内の動向、そして、世界の動向を知り、それを客観的に把握し、「より良い近未来」について模索するには、ただ単に、表面的事実のみを知るだけでなく、「人類」(mankind)という大きな立ち位置から、実に多種多様な分野・観点から考察し、深い思索を試みる必要性がそこに存在します。

そのためには、まずは、学問における幅広い知識が必要不可欠となります。学問における三大潮流である人文科学(human sciences)、社会科学(social sciences)、自然科学(natural sciences)について総合的に学習・理解を深め、その他、"学際研究"(interdisciplinary study)として、様々な具体的問題について分析・解明していくことが求められます。
そして、さらには、「"人間存在"(human existence)そのものの真髄」を知る手掛かりとして、文化・芸術・思想・宗教などの学習・理解も必要となります。

上記における、それらすべての分野を理解する上で基盤となる分野は、言うまでもなく、「哲学」(philosophy)です。西洋文明社会、そして、東洋文明社会においても、「諸学の基礎は哲学にあり」というと捉え方は、まさに、"普遍的捉え方"
といえるもの。結局のところ、古今東西を問わず、どのような人間がどのような職業に就いていようとも、真の意味での
国際的教養・見識を養いたいのであれば、まず第一に、哲学を学ぶことが必要不可欠となります。

最後に、わかりやすくまとめます。

新聞は、単なる表面的事実が記載されたもの。新聞の情報を「教養」に直結させるには、まず第一に、すべての学問
分野の基盤をなす「哲学」をしっかりと学び、それと並行して、人類史・世界史の潮流を見据えながら様々な具体的
分野・問題について学んでいくということがポイントとなります。

さらに、哲学の重要性について具体的に述べるならば、以下の如きとなります。

   1 「哲学・理念を知らずして、どのように表面的知識・情報を得ようとも、何らの本質をも見極めることはできない。」

   2 「土台を築くことなく慌ただしく積み上げた積木は、ほんの少しの振動で大崩壊する。」

   3 「技術は"技術"。どのように技術に長けていても、真の意味で人類の利益・幸福に役立たせるには、その技術
     者自身が、深く哲学することが必要不可欠である。」(例えば、医学の研究に優れた医師であっても、"医術"
     ばかりにとらわれ、理性を介して「人間の尊厳」(human dignity)という観点から深遠なる思索を試みない限り、
     真の意味での"医療の理想郷"に到達することは不可能である。)

これらについての"妥当性"、そして、"真実性"は、理性を介して、「人類が歩んできた歴史の推移」について達観している人にとっては、常に、"真実そのもの"といえることです。

本稿を読む読者の皆さん、是非、以上のことについて自分なりに深い思索を試み、真の意味での国際的教養・見識を養うためのヒントとしてください。大切なことは、表面的事実ではなく「本質」。どのような人間においても、本質を知るためには、実に過酷な道のりを歩むことになりますが、人間に与えられた天賦的理性を生かすためには、勇気を持って勇敢にその道を選択し、一滴一滴汗を流しながら前に進むしかありません。これまでの人類が試みてきた「"知"への道のり」は、まさに、そうした”困難との闘いの歴史”なのです。







毎日の生き方そのものが、”英語の輝き”を変える

当教室には、少なからず、一日も早く英語が上手になりたいと切望し、毎日、レッスンの復習に励む毎日を送っていても、
なかなか思うように、自分が望むような英語を喋れるようにならないと悩んでいる受講生もいるでしょう。

もし、そのように苦悩する日々を送っている受講生がいましたら、これからご紹介する以下の記述をお読み下さい。熟読す
ることにより、必ず、今後の学習における何らかのヒントを得ることができます。


今ここで、自分の頭の中で、仕事やプライベート、あるいは、テレビ・映画・演劇等で観る、「人の心
を掴む、惚れ惚れするような日本語を喋る”一人の日本人”」を思い浮かべてください。

人の心を掴む、惚れ惚れするような日本語を喋る人は、毎日、何を考えて生きているでしょうか。
そのような人は、<1>「日本語が上手になりたいと思って、毎日、日本語のみを勉強している人」
なのでしょうか。それとも、<2>「毎日の生活において、”一個人”として、自分自身の発言と行動
に対して責任を持ち、人とのコミュニケーションにおいて、一語一語、しっかりと、”責任”と”誇り”を
持って喋っている人」なのでしょうか。

英会話道場イングリッシュヒルズの受講生であれば、すべての皆さんが、<2>と答えるに違いあ
りません。今、英会話の習得のスピードに焦っている人は、是非、この<2>の”人物像”について
自分なりに想像してみてください。

本質論で述べるならば、英語という代物は、”損得勘定”で、「できるだけ楽をして上手に喋れるよう
になりたい」と考えて学習している限り、それを何年学習しても、いや、一生涯学習を続けても、
「人の心を掴む、素敵なスピーカー」に変貌することは不可能です。

英語は、”生もの”です。

「・・のテストで・・点以上取ると、給料が上がる」、「英語ができると何かと好都合である」という狭い
了見で学習している人は、日々、学習している英語の一語一語に、”意気揚々としたエネル
ギー”を宿すことは不可能です。

英語の一語一語に”意気揚々としたエネルギー”を宿すためには、何よりも、まず第一に、「学習す
る本人の毎日の生き方そのものを、新鮮、且つ、謙虚な生き方とすること」が必要不可欠となりま
す。

英語の単語や会話表現を、”損得勘定で”、闇雲に大量に覚えようとしても、時が経過すると、その
ほとんどを忘れてしまいます。大切なことは、迎える一日一日において、自分なりに工夫を凝らし、
常にフレッシュな空気を自分に与え、「心のステージを、”新鮮”、且つ、”謙虚な状態”に維持
する」ということが、英語の学習を進める上で”必要不可欠な精神基盤(前提条件)”となります。

大切なことですので、もう一度述べます。

人の心を掴む、素敵な英語スピーカーになるそのプロセスは、一にも二にも、「新鮮、且つ、謙虚
な心のステージ」を維持するということです。では、「新鮮、且つ、謙虚な心のステージ」を維持す
るには一体どうしたらよいのでしょうか。その答えは、当教室の「レッスン日記」、あるいは、この
「特講」におけるすべての記述を丁寧に熟読することにより、その理解を深めることができます。

「レッスン日記、特講を熟読してそれなりの答えを導き出すことができたが、どうしても、講師から
その方法・考え方について直接聞きたい」という受講生は、通常レッスンのスタート時、あるいは、
すぐに聞きたいという受講生は、直接、講師の携帯電話におかけください(曜日・時間帯は問わ
ず)。

講師は、常に、真剣に、そして、本気で英語と向き合う受講生のためには、惜しみなく時間を捻出し
ます。








再考 「国際的教養・品格を備えた英日バイリンガルへの道」
・・・全身全霊で英語を学ぶ受講生のために、心を込めて

当・英会話道場イングリッシュヒルズでは、現在、ほとんどすべての受講生が、自分なりの工夫で時間を上手につくり、
芸術鑑賞、即ち、絵画、あるいは、クラッシック音楽を鑑賞する日々を送っています。私自身、常に、受講生の皆さんが
「最高の心のステージ」で英語を心と体に浸透させることを目標としていますが、その目標を達成するべく、一つひとつの
レッスンにおいて、それぞれの受講生の興味・関心を慎重に考慮し、「英会話習得において芸術を鑑賞することは極めて
有益な活動である」ということを述べています。

本来、芸術作品は、芸術家(創作者)が、普通の人間には想像できないほどの膨大なエネルギーを使って、人間の心に
何らかの大切なメッセージ投げ掛けている”存在物”。・・・・・「何もないところから、何らかの独自性のある存在物を創造
する」という行為を行うには、創作者は、作品における一連の創作活動において、「数多くの辛苦を経験し、思索に思索を
重ね、苦悩に苦悩を重ねて<新しい境地><独自の境地>を生み出す」というプロセスを通らなければなりません。
この創作のプロセスは、音楽でも、絵画でも、そして、言うまでもなく、活字文化(本の執筆)においても該当する考え方で
す。

基本的に、1)「既にあるものに依存して生きる」という行為と、2)「既にあるものに依存することなく、独自のもの・新しい
ものをつくるために生きる」という行為は、”根本的に異なる行為”です。言うまでもなく、普通の人が、創作者が発するメッ
セージを受けるには、それなりに”感じる能力”を養うことが必要となります。この、”感じる能力”、これがいわゆる「感性」
(sensibility)と呼ばれる能力を指すわけです。

今ここで説明するには及ばない事実ですが、当・英会話道場イングリッシュヒルズのレッスンは、通常の英会話スクール
で行っているような”単なる英会話レッスン”ではありません。無論、当教室のレッスンは、英会話そのものを教えるレッス
ンではありますが、当教室のレッスンの中身は、実に、この限りにどどまるものではありません。当教室では、1)「受講生
自身が国際共通語としての英語を駆使して、どのように自己実現を図ることができるか」、そして、2)「どのようなプロセス
を経て、より確実に、”国際的教養・品格を備えた英日バイリンガル”として変貌を遂げることができるか」という重要問題
について、講師と受講生が一丸となって真剣に思索し、しっかりと道を切り開いていくためのレッスンを行っています。

”言語”としての<英語そのもの>のお話をするならば、概して、「感性」に優れている受講生は、そうでない受講生より
も、発音・アクセント・イントネーションのマスターのスピードは頗る速いといえます。そして、さらには、1)「講師が発する
英語の発音の拾い方」、2)「講師が極めて理性的に扱っている一語一語における意味合い(ニュアンス)についての相違
の認識・理解」、3)「トピックに応じて差別化される”言葉の概念の捉え方・使い方”」、4)「間の取り方」、5)「コミュニ
ケーションの状況(流れ)に応じて行う、”妥当なトピックの選択法”」など、講師が行う一つひとつのレッスンにおいて、
これらについての十分な理解を得るためには、受講生自身が、それなりの「感性」を備えていることが必要不可欠の条件
となります。

これらすべての観点について十分に理解するためには、受講生の皆さん自身が、講師が毎回のレッスンにおいて講義す
る英語をしっかりと聴き取る必要があります。レッスンのおける教授内容についてしっかりと聴き取り、十分な理解を得る
ためには、言うまでもなく、ボイスレコーダーでレッスン内容を録音して、次のレッスンまで、何度も繰り返し聴くことが
<最も近い道のり>となります。「大好きな音楽を聴くときのように、ボイスレコーダーを、毎日、何度も何度も繰り返し聴
く」、・・・・・受講生は、「何度も繰り返し聴く」という経験を積み重ねることで、少しずつ、講師が喋る英語の”深さ”・”重さ”
を感じることが可能となり、レッスン中に講師が述べた<大切な気づき>、あるいは、<ミニ講義>について、しっかりと
理解できるようになるのです。

当教室の受講生の皆さんは既に実践していることですが、レッスンにおいてボイスレコーダーを使用する場合は、すべて
のレッスンにおいて、レッスン・スタート時に、講師に対して、"May I use voice recorder, please?" と英語で述べ、一般
常識・マナーとして、(目の前にいる相手の”生の声”を)録音するための許可を取ることが必要です。”他人の生の声”を
録音する際に、その相手に対して、”生の声”を録音していいかどうか尋ねることなくボイスレコーダーのスイッチを入れる
人は、英語をどのように勉強しても、そのような”ローカルな”レヴェルの見識・マナーでは、「品格のあるエレガントな
国際人」になることは不可能です。残念な事実ですが、これは”真実”です。

さて、当教室のレッスンでは、もちろん、基本テキストは使います。しかし、基本テキストは、あくまでレッスンの方向性を
定めるための”たたき台”。60分のレッスンにおいて講師が喋る英語は、そのほとんどすべてが、基本テキストには載っ
ていない英語です。

レッスンでは、基本テキストの会話文の発音・アクセント・イントネーションの指導を徹底的に行うということは言うまでもあ
りませんが、講師のレッスンはその限りにとどまりません。テキストの会話表現・語彙を<たたき台><出発点>として、
そこから話す内容は、実に幅広く、そして、ダイナミックに派生・展開。レッスンにおけるお話は、実に、多種多様な分野・
方向性へと広がっていきます。レッスンにおいて講師が述べる「心の旅」とは、まさにこのことを指します。

レッスンにおいて、講師は、受講生の興味・関心に応じて、国際的教養を養う目的で、比較文化、歴史(人類史における
二大潮流、西洋・東洋の歴史を網羅)、政治(日本・海外)、国際経済、外交、国際ビジネス、経営学(経営者側の立場か
ら分析・究明する組織論・経営論等)、法律学(国内外の法律における学術・実務双方。特に、比較法学としての基本的
人権保障)、哲学(西洋・東洋における、古代から中世、そして、近代・現代への歴史的潮流)、文学、芸術、美学、医療、
福祉などの諸分野、・・・・・即ち、講師は、1)「学問」(人文科学、社会科学、自然科学)、2)「文化」、3)「芸術」等を幅広
く網羅し、常に、受講生ご本人にとって最も妥当な<トピック><ミニ講義>を展開することに膨大なエネルギーを注いで
います。

<ミニ講義>は、そのすべてが、受講生の興味・関心に応じて、話す内容が異なります。無論、レッスンにおいて、講師
が、受講生が関心を示さない分野について積極的に話を進めることはありません。すべての<ミニ講義>は、受講生
お一人お一人の「個性」「持ち味」を最大限に伸ばすということを第一目的として行われます。

より良い形で「国際社会で通用するエレガントな英語」を習得するには、一つひとつのレッスンにおいて、講師が、
”完全個人指導”として、たった一人の受講生の前で喋る英語をしっかりと復習することが、「国際的教養・品格を備えた
英日バイリンガル」として変貌を遂げる上で、最も重要、且つ、効果的なプロセスとなります。

実際、講師はレッスン中、様々なトッピックに登場するすべての英語表現について、発音・アクセント・イントネーションのす
べてにおいて、国際社会で使える「品格のある、エレガントな英語」をしっかりと教授するべく、常に、”体力の限界”と闘い
ながら、自身が出し得るエネルギー、即ち、”120パーセントのエネルギー”を捻出し、細部にわたってレッスンを行ってい
ます。そのような意味で、受講生の皆さん自身、自宅・通勤途中、カフェ等でレッスンの復習を行うとき、一つひとつのレッ
スンにおいて講師が発する英語をしっかりと復習することにより、講師独自のレッスン内容を確実にマスターすることが
可能となります。

当教室は、こう考えます。・・・・・まず第一に、英語は、「印象に印象を重ねて習得する”生きた代物”」。その習得方法
は、頭で行う暗記ではなく、「心で感じ、心で喋る」という、”心と体における一連の経験”を通して達成できるもの。そして
第二に、「心で感じた英語について、それを自分における日々の思索とどのように関係づけ、”理性的存在者”として英語
を使っていくか」という問題。これらの必須のプロセスについてしっかりと整理・理解できた受講生が、真の意味で、「国際
的教養・品格を備えた英日バイリンガルへの道」を歩んでいくことができます。

当教室には、実に、様々な英語力を備えた受講生がおります。「英語がまったく喋れない状態でスタートした方」、「過去
において数年間、他の英会話スクールで学んでいた方」、「既に、英語は上級レヴェルではあるが、より洗練されたエレガ
ントな英語(例えば、VIP対応のエレガント・イングリッシュ)を習得したい、という方」など、まさに、受講生の英語力は様々
です。

通常の場合、当教室の受講生は、レッスンのスタート時において「英会話習得における”感性を磨くことの重要性”」につ
いて知らなかった場合においても、レッスン受講をスタートし、レッスンにレッスンを重ねて、1年ほどで、前述した「英会話
習得と感性の相関関係」について大まかに理解するようになります。そして、2年目から、次第に、英語における
一語一語の「深さ」「重さ」について感じ始めます。通常、受講生は、この段階に入って初めて、「英語の習得は、一般
世間で言われているほど、そう簡単なものではない」ということに気づき始めます。

当教室では、”腹を決めて”全身全霊で学ぶすべての受講生が、この通過するべき”必須のプロセス”を通って、少しず
つ、「本物の英日バイリンガル」に変貌していきます。

1)「”真摯な姿勢”・”謙虚な姿勢”を基盤として真剣にレッスンを受ける人のみが、真の意味での”英語の深さ”を知るこ
とができる」、そして、2)「”英語の深さ”を知ることなく、国際的教養・品格を備えた英日バイリンガルになることは不可能
である」、・・・・・英会話道場イングリッシュヒルズは、いつ何時においても、このような考え方を下に、常に、”公平無私な
学問の精神”を基盤として、すべての受講生に対して”日本一のレッスン”を行っています。


[追記] (重要)

本当の意味での英会話道場イングリッシュヒルズのレッスン、即ち、”生井利幸のレッスンの醍醐味”を知るには、
<当教室・唯一独自の特別レッスン>の概要ページ、"Lesson Extraordinary"をしっかりと熟読・理解することが、最も 
近い道のりとなります。

特に、当教室でレッスンをスタートした新・受講生は、必ず、"Lesson Extraordinary"を熟読し、十分な理解を得るように 
努めてください。熟読し、理解を深めるためには、"Lesson Extraordinary"のページを紙にプリントアウトし、線を引く、ある
いは、メモを取るなどして、一つひとつ丁寧に読み進めることをお勧めします。同ページを丁寧に熟読し、理解を深めること
により、必ず、「自分の目標を達成する上で必要不可欠な条件・プロセス」について知ることができます。

また、既に上記・概要ページを熟読した受講生も、今一度、すべての記述をしっかりと熟読してください(2010年11月中
に、概要ページの一部を、修正・加筆しました)。再度熟読することにより、さらに、より明確に、”より効果的な学習の
方向性”を見い出すことができます。







地球的視野から「自分の立ち位置」を認識する、という重要性

すべての人間には、考える能力、即ち、「理性」(reason)が賦与されています。私たち人間は、日々、物事を考え、自分な
りの生き方を模索し、迎える一日一日において、「より価値ある人生」「より実りある人生」を送りたいと切望しています。

人間は、この地球上のどのような文化圏で人生を送ろうとも、「毎日、食事をとり、仕事、あるいは、家事に従事し、余暇に
おいて趣味を楽しみ、適度に休憩、あるいは、睡眠をとる」という行為において、すべての人間が、同じ行為を繰り返しな
がら、自らの人生を謳歌しています。

例えば、日本人の場合を例にして考えてみましょう。言うまでもなく、日本人が日々の生活のために使う言語は日本語で
すが、それは、日本という”極めて限定的な地域的範疇”において該当することです。グローバルな観点から述べるなら
ば、日本人は、日本人である前に、「この地球に存する”一個の人間”」。自分が何人(なにじん)であるかという問題の前
に、日本人は「人間」(human being)であるわけです。

この国際社会において、そうした、「人間として担っている”自分自身の立ち位置”」の意味について十分に理解する日本
人にとって、英語という”国際共通語”を見据えたとき、「自分が何人であるか?」という”有様”は、それほど、大きな問題
ではないでしょう。

そして、そうした自分自身の立ち位置の意味について認識している日本人にとって、英語という言語の面前においては、
自分が何人であろうとも、「この地球に存する”一個の人間”として英語を喋る」ということの重要性を深く認識し、更には、
喋る相手も、「その相手が何人であるか?」という”有様”についても、特に、大きな問題とはならないと思います。

この21世紀社会においては、英語は、決して”英米人だけのもの”ではありません。世界中において、英語は国際共通
語として実に多くの人々によって当たり前のように使われており、「英語を喋るその本人が、イギリス人であるかアメリカ
人であるか」ということは、決して重要な問題ではありません。

日本の英会話学習者の場合、「英語を喋る相手は英米人がいい。英米人と喋れば、英語が上手になる」と端的に考える
人が実に多いというのが実状です。しかし、英米人といえども、話す英語は「個人」によって様々。無論、奇麗な英語を喋
る人はいますが、それは少数。一般の英米社会においては、常識・マナーの欠如した英語を喋る人もいれば、スラングや
暴力的表現を連発する英語を喋る人も大勢います。そうした観点からいえる「日本人の英語観・国際観におけるそのクオ
リティー(質)」というものは、実に、”島国的な偏狭な見方・考え方”に依存するものであり、”極めて非文明的・非近代的
な価値観”がそこに内在するものです。

本当の意味での国際人とは、「地球的視野に立って、この地球上に存する様々な人々とコミュニケーションを図るために
英語を喋る」という精神基盤を樹立している人を指すものと、私は捉えます。

本来、言語という存在は、「自分の人生をしっかりと生きる上で必要不可欠の道具」として捉えるべき代物です。そうした
観点から導き出せる考え方は、日本人にとって、「英語は、外国語ではなく、自分の人生を生きていくための"自分自身
の言語"」であるという考え方。

英語を喋る相手が、例えば、アメリカ人、インド人、中国人、ドイツ人、シンガポール人であろうと、あるいは、日本人であろ
うと、国際人として考えるべき最も重要な問題とは、「今現在、現実に英語で話している相手を、”この地球に存する一個
の人間”として捉え、お互い、”尊厳ある一個の人間同士”として、心を込めて、より実りあるコミュニケーションを図る」とい
うことです。

日本には、実に星の数ほど英語を学ぶ人が存在しますが、実際、このような考え方を基盤として学習を進めている人は
極めて少ないということが実状です。残念な事実ですが、概して、日本人にとって、「英語は"英米人の言語"」、表現を換
えるならば、「英語は"他人の言語"」でしかないのです。

この日本で、どのように多くの人々が英語を学ぼうとも、そのほとんどの人々にとって、英語は「他人の言語」。日本人の
場合、一事が万事において、英語は「他人の言語」でしかないから、「他人が喋る言語を真似するだけ」で終わってしまう
のです。

単なる英会話学習者で満足するのか、それとも、本当の英日バイリンガルとして変貌を遂げるのか、その分かれ道は、
本稿で述べた英語に対する認識・捉え方次第で大きく変わります。

言語は、それが何語であっても、「自分自身の生き方の”鏡”」。そして、「自分の人生を生きる」という行為は、誰にとって
も難しい行為。そして、「言語を喋る」という行為も、”極めて難しい行為”であるに違いありません。

英語という言語を面前として、(1)「その言語を”自分の言語”とすることができるか」、それとも、(2)「”他人の言語”を学
ぶだけ(真似するだけ)で終わってしまうのか」、真の意味での英日バイリンガルを目指す英会話学習者においては、これ
ら両者における相違について”必要十分に”把握・理解することは、実に、必要不可欠の条件であるということができま
す。







自然の面前で「素の自分」として英語で思索し、「素の自分」として英語を喋る人が、
”真の英日バイリンガル”として変貌を遂げる

英語を外国語としてではなく、「自分の言語」として自由自在に操れるようになるためには、単に、英会話教材を丸暗記す
るだけの機械的学習では、到底、その目的の達成に及ぶことはありません。

英語を「自分の言語」として自由自在に操れるようになるには、機械的な暗記ではなく、毎日、「英語でものを考える」とい
う時間を持つことが重要です。

「英語でものを考える」、そのように提案されても、何をどう考えたらいいのか、戸惑う人もいると思います。「ものを考える」
といっても、べつに、政治・経済や外交問題など、難しい問題について考える必要はありません。考える対象は、「今、
悩んでいること・気になっていること」「仕事のこと」「家族・友人のこと」「趣味のこと」など、普段の生活において日本語で
考えているその内容で十分に足ります。

英語で考える際には、特段、難しい単語・熟語、あるいは、英語表現を使う必要はなく、今現在、自分が知っている単語・
熟語、英語表現を使って考えることがポイントとなります。

面白い現象ですが、「英語の勉強」を”英語の勉強”と考える英会話学習者は、英語を喋るとき、できるだけ難しい英語を
喋ろうとする傾向に陥ります。無論、勉強は”勉強”に違いありませんが、「英語の勉強を”外国語の勉強”と捉えてしまう
ステレオタイプ思考」から脱却することができない限り、そうした人にとっての英語は、何年英会話を学んでも、英語は、
「遥か遠い海の向こうの外国の人々が喋る”他人の言語”」でしかありません。

大切なことですので、ここで、はっきりと述べます。英語は、それをどのように長く学んでも、「英語は、遥か遠い、海の向
こうの人々が喋る外国の言語」という捉え方をしている限り、その言語が、「自分の日常の言語」になることはあり得ませ
ん。ここまでの考え方を理解した人は、以下において述べる内容について、”頗るスムーズに”、その理解を深めることが
できます。

皆さんが日本語でものを考えるとき、まず第一に一体何を考えるでしょうか。普通の人であれば、まずは「日常のこと」で
す。即ち、「今、悩んでいること・気になっていること」「仕事のこと」「家族・友人のこと」「趣味のこと」などについて考える
のが普通です。

特別な専門の職業に就いているエキスパートの場合、例えば、外交問題の専門家であれば「現在のアメリカ政府の外交
政策」について考えるでしょうし、学者であれば自分が研究している「学問」について考えるでしょう。しかし、一般の会社
で普通の仕事をしている人が、日本語でいきなり「アメリカ政府の外交政策」について深い思索を試み、それに対して
自分はどのようなアクションを起こすべきかなどと考える人はまずいないでしょう。

日本人が日本語でものを考えるとき、日本人は、通常、「ごく日常的なこと」を日本語で考えます。今、ここで、このことを
しっかりと自分の頭の中で整理するとわかりやすいと思いますが、日本の英会話学習者が英語でものを考えようとすると
き、「最も妥当といえる、”考える対象”」は、前述した「日常のこと」であることがわかります。

                                 *注意
                                  特別な専門の職業に就いている人の場合でも、英会話力が
                                  初級レベルの場合は、やはり、英語で「日常のこと」を考えるこ
                                  とが、”最も妥当な練習方法”となります。

基本的に、日本人が英語でものを考えるとき、長年使ってきた母国語の日本語で考えても難しい内容について、いきなり
英語で考えようとしても、それは、”もともと無理な行為”でしかないのです。

偽者でない、真の英日バイリンガルとして劇的な変貌を遂げたいと考えている人は、英語でものを考えるとき、是非、
「”身の丈にあった内容”について、落ち着いてゆっくりと考えてみる」ということを試みてください。普段の生活において、
自分自身が問題意識すら持っていない難解な内容について英語で考えようとしても、それは結局、何の練習にもなりま
せん。

緑や川、山や海は、「人間の心」を清める役割を果たし、「素の自分」として考える”価値ある時間”を与えてくれます。
「”素の自分”、即ち、本当の自分として”身の丈に合った内容”について英語で考え、英語で喋る」という経験の重要性に
気づいたとき、英会話学習者は、次第に、「本当に地に足の着いた学習方法は一体どのような学習方法を指すのか」とい
うことについて自分の心の中で感じ始めるのです。







「生きる」という行為の真意を考え、一語一語を大切に扱う人が、「他者の心を掴む英語」を喋る

人生を生きるということ、それは決して簡単なことではありません。日本人の場合、「自分の人生を生きる」という行為を
より良い形・ステージで展開していくために、毎日の生活を送る上で必要不可欠の道具として「日本語」という言語がそこ
に存在します。

「日本語」という言語、・・・・・日本人にとって当たり前と言えば当たり前の言語ですが、実は、「日本人にとって母国語で
あるこの日本語についてそれをどう捉えるか」という問題は、国際的教養・品格を備えた英日バイリンガルになることを
目指す上で、極めて重要な問題といえるものです。

「英日バイリンガルになる」ということ、・・・・・それは即ち、日本語でも英語でも、言語を扱う一個の存在者として、
「誇り」と「責任」を持って言語(日本語・英語)を喋るということです。

英会話道場イングリッシュヒルズにおいては、講師は受講生に対して、「英語を、決して外国語と思わないでください。
英語を喋る際には、英語を外国語(借用語)として喋るのではなく、”自分自身の言語”として喋ってください」と指導してい
ます。

普通の日本人であるならば、仕事でもプライベートでも、日本語を喋るとき、それなりの「責任」を持って日本語を喋るで
しょう。この日本では、日々の生活を展開していく上で、「日本語を喋る」ということは最も基本的な行為であり、日本で生
まれ日本で教育を受けた人であれば、日本語を”すこぶる流暢に”話すことができます。

しかし、実際、日本人として日本語をすこぶる流暢に話せたとしても、知識として知っている日本語表現・語彙について、
日々の日本語コミュニケーションにおいて、「接する相手の気持ち」、あるいは、「場の雰囲気」を鑑みることなく闇雲に
喋る人はほとんどいないでしょう。

以下において、日本人がどのように日本語を知っていても、日本語を喋るとき、「自分の目の前にいる相手の心情
(感情)」、そして、「自分が置かれた場の空気(雰囲気)」を考慮することなく無秩序に喋るということをしない理由につい
て述べたいと思います。

   1) 意識する・しないにかかわりなく、日本人として、母国語である日本語について言葉の「重み」「深さ」を感じる
      所以から、「自分の言語」である日本語を大切に扱おうとする姿勢が芽生え、それを維持し続ける

   2) 人間は皆、ある程度の人生経験を積むと、「言葉が成す威力(効力)」について再認識するようになる

   3) 言葉は、その使い方次第で、他者を喜ばせるだけでなく、逆に、悲しい思いをさせてしまうこともある

   4) 言葉は、その使い方次第で、「暴力」と化してしまう、など

言うまでもなく、「品性のある日本語を喋る」ということは、以上のことを踏まえて日本語を喋るということです。英日バイリ
ンガルを目指す方々においては、上記の考え方を、そっくりそのままの形で英語を喋る際にも類推適用することをお勧め
します。

今ここで再び、一個の存在者として「人生を生きる」という行為を見詰め直してみてください。そして、英語を喋るとき、それ
を外国語(借用語)としてではなく、「自分自身の言語」として捉え直してみてください。

そうすることで、「この地球に存する”一個の存在者”として、英語をどのように捉えたらいいのか」、自分自身の心の中
で、極めて自然な形で、「自分なりの気づき」を得ることができるに違いありません。







”英語の勉強”のために英語を学ぶ人は、
一生涯、「品格のある、エレガントな英語スピーカー」になることはできない

日本には、「英語が喋れるようになりたい」という願望を持っている人は、実に、星の数ほどいます。では、ここで、「英語が喋
れるようになりたい」という願望を持っている人の精神構造について分析したいと思います。

一般に、「英語が喋れるようになりたい」という願望を持っている人の場合、「英語を学ぶ理由」として、しばしば、以下のよう
な”ステレオタイプ思考”の理由をみることができます。

   1) 勤務する会社において、より高い英語力を養うと、報酬(金銭的ベネフィット)が上がるため
   2) 会社の同僚や友人の前で英語を流暢に喋りたいという願望(利己心に基づいた自己顕示欲)を実現したいため
   3) アメリカ人やイギリス人、あるいは、その他、西洋諸国の人々とスムーズな交流を図りたいため
   4) 子供の頃から、英語そのものに憧れ、自身における「アメリカ人のように英語が喋りたい」という願望を実現したい 
      ため
   5) 人前で流暢に英語を喋り、「かっこいい」「すごい」と他人から思われたいため
   6) TOEIC、TOEFL、英検、あるいは、その他の資格試験などで高得点を取るため

英会話道場イングリッシュヒルズの受講生の皆さんであればすぐにわかることですが、上で述べた如き事項を基盤とする
理由は、ある意味で、「視野の狭い見方・考え方に基づく理由」、そして、「非理性的な理由」であるということができます。

言うまでもなく、英語は、この地球に存するたくさんの人々と心温まるコミュニケーションを図るために使用する道具(tool)で
す。上で述べた理由は、他者と心温まるコミュニケーションを図るための理由ではなく、単に、「自己満足として喋るだけの
英語」であり、「自分だけの利益・自己満足を満たすための英語」でしかありません。

英会話道場イングリッシュヒルズは、「日本一厳しい英会話教室」ですが、これを別の観点から述べるならば、「日本一、
心を重要視する英会話教室」でもあります。

英語は、薄っぺらい、一辺倒な知識のみでそれを喋ろうとする限り、どのように学習を進めようとも、その英語が、「人の心を
掴む英語」となることはありません。職場、あるいは、プライベートで、人の心を掴む英語が喋れるようになるには、一にも二
にも、「人間としての”心”」を大切にすることが大前提となります。

日本における多くの英会話学習者に見られるステレオタイプは、

   「外国人を目の前にすると、必要以上にエネルギーを注ぎ、英語で一生懸命に喋ろうとする。その反面、日本人に
   日本語で接するときには、相手の心情などほとんど配慮することなく適当に喋る」

という、実にお粗末な様相です。今ここで率直に述べるならば、この類に属する英会話学習者は、そうした偏狭極まりない
世界観・価値観を改めない限り、一生涯、「国際コミュニケーションの本質」について気づくことはないでしょう。私自身、これ
までの人生において、世界中で様々な人々と接してきた経験から明言できることは、上記の見方は「真実」そのものであると
いうことです。では、「品格のある、エレガントな英語スピーカー」として大きく変貌を遂げる上で、一体どのような「精神基盤」
を持つことが大切なのでしょうか。

概して、「品格のある、エレガントな英語スピーカー」として大きく変貌を遂げる人に共通する要素として、以下の如き要素を
挙げることができます。

   1) 英語を学ぶ以前の問題として、日本人として、常日頃から、「品格のある、エレガントな日本語」を喋ろうと心掛けて
      いる人
   2) TOEIC、TOEFL、英検、あるいは、その他の資格試験など、いわゆる”損得勘定”のみで英語を学ぼうとしない人
      (・・の試験で何点以上を取る、というような学習方法では、「品格のある、エレガントな英語」を習得することは
      不可能であるという”現実”をお知りください。)
   3) 交流する相手が、外国人であろうと日本人であろうと、常に、お互い、「一人の人間」として交流できる人
   4) 日本人として、「日本語の”深さ”・”難しさ”」について、極めて厳粛な姿勢で理解している人
   5) 地球に存する”一個の人間”として、「英語の”深さ”・”難しさ”」について、極めて厳粛な姿勢で理解している人
   6) 「人生を生きる」ということは、どの国でどのように生きても、常に、難しい(決して簡単ではない)ということを認識
      している人
   7) ”地球規模の見地”から鑑みるならば、<1>「日本人と日本人のコミュニケーション」、そして、<2>「日本人と
      外国人のコミュニケーション」の双方において、何ら大きな差異はない、という考え方を理解でき、それを、実際の 
      生活の中で実践できる人
   8) 「言語は、それが何語であっても、上辺だけの知識で喋るのではなく、常に、”心”(真心)で喋ることが大切であ 
      る」という考え方を理解できる人
   9) エレガントな英語を喋るには、英語を学ぶ以前の問題として、「自身が、”一個人”として、それなりの教養・品格を
      備えているということが大前提となる」という考え方を理解できる人
   10) 日々の生活において、英語の学習に加え、芸術鑑賞(絵画や音楽等)の時間を確保し、自分の心を豊かにさせ、 
      心で英語を喋ろうとする人、など

最後に、<今回の総まとめ>として、ここで一つ、大切なことを明言します。


「”英語の学習そのもの”のために英語を学ぶ人」、そして、「損得勘定で英語を学ぶ人」は、一生
涯、「人の心を掴む英語」、そして、「品格のある、エレガントな英語」が喋れるようになることはない
でしょう。

”コミュニケーションの道具”としての英語を学習する上で最も大切なことは、”自己満足”として、
一方的に自分を表現しようとするのではなく、とにかく、

   1)「一にも二にも、今現在、自分の目の前にいる人とより良いコミュニケーションを図ろうとする
     ”誠心誠意の心”を持つこと」、
       そして、
   2)「自分が今現在話している目の前の相手を理解しようと努めること」

です。

自己満足として一方的に喋る英語コミュニケーションからは、何ら、価値あるコミュニケーションが生
まれることはありません。価値あるコミュニケーションを実現するには、とにかく、相手の心と、
「心の交流」を持とうとする”誠心誠意の心”が必要不可欠となります。

心を込めて、そして、丁寧に「心の交流」を図ろうとすれば、相手が、いかなる文化圏に属するいか
なる人間であろうとも、やがて、そこに、「相互コミュニケーションにおける”何らかの価値”」が生ま
れます。

そして、接するその相手が、外国人であるか、あるいは、日本人であるかということは、特段、大き
な違いがあることではありません。”地球に存する一個の人間”として大切なことは、相手が何人で
あっても、常に、「心を込めてコミュニケーションを図る」ということに尽きます。

人は、このことに気づいたとき、初めて、1)「国際コミュニケーションの真髄」について知るようにな
り、そして、国際共通語である英語について、2)「人は一体どうして、”品格のある、エレガントな
英語”を喋る必要性があるのか」について考えるようになるのです。








culminationという経験

芸術、学問、文化など、専門性を極め、その専門分野において顕著に秀でるためには、その分野を極めるそのプロセスにお
いて、<ある種の経験>を積み重ねることが必要となります。

その経験とは、"culmination"。

culminationを日本語に訳すると、「最高潮に達すること、絶頂を極めること」。あるいは、簡素な日本語表現に概念化すると、
「最高潮、絶頂、頂上、全盛、至上、など」という言葉に相当する概念となります。

いかなる分野においても、それを徹底的に極め、世界においてその分野の頂点に到達するには、その本人が、どのような
才能・能力を備えていようとも、”それなりの過酷な道のり”を通過しなければなりません。

「何ら、挑戦することなく、努力しないで簡単に生きていきたい」と考えている人においては、これからご紹介する考え方を
理解することは極めて難しいと思います。しかし、一方、「日々、自分の可能性を模索し、限られた自分の人生(の期間)
において、徹底的に自分を向上させたい」と切望する人にとっては、以下の考え方は、非常に参考になる考え方です。

以下の考え方は、主に、芸術家や創作者、あるいは、学術研究において該当する考え方ですが、<応用力のある英会話
学習者>にとっては、「自身の英会話習得における精神基盤」として類推適用することができます。




culminationという経験

生井利幸、、、、

特定の専門分野を極めるには、それなりの試練を通過しなければならない。試練を
通過するには、それなりの覚悟を決める必要がある。覚悟を決めない人が挑戦する
挑戦は、本来、「真の意味での挑戦」ではない。

専門分野を極める上で、その探究者は、探究するその過程において、必ず、
culminationの境地を経験しなければならない。

culminationの経験は、日々、自分の「無知」「無力」「弱さ」と真正面から闘い、
来る日も来る日も、やって、やって、やり抜かなければ、そこに到達することは
「夢のまた夢」と言わざるを得ない経験である。

日本でも、そして、海外でも、ある分野において秀でた能力を備えている人間は、
皆、どのような強風にも決して負けることなく、自らの「強靭な意志」を基盤として、
culminationを経験している。

culminationの経験は、「その特定分野において、世界でトップレベルに達するとい
う至上の決意」、そして、「いかなる逆境にも負けない強靭な意志」を堅持し続ける
という精神基盤を樹立することが、そこに辿り着く上での”最低限の前提条件”
(the minimum prerequisite)となるものだ。

言うまでもなく、culminationは、たった一回の経験では足りない。探究者は、
やって、やって、やり抜いて、自身の心の奥底でculminationを経験する。だが、
その経験は、いわば、その分野を極める上での導入段階というべき経験である。

特定分野において、世界でトップレベルに達するためには、長い年月をかけて、
やって、やって、やり抜いて、数多くのculminationを経験することが必要だ。

culminationを経験する直前には、必ず、「鉄の壁」(iron wall)が存在する。大抵、
探究者は、鉄の壁の面前において、そこで息を切らし、楽な道を探し求め始める。
しかし、探究者が、率先して楽な道を選び、自ら楽な道へと進んでしまったら、
その時点で、その探究は終焉を迎えることになる。

例えば、芸術においては、必ず、「鉄の壁」が存在する。鉄の壁は、余暇におい
て、”趣味”として芸術を楽しむ人間には決して見ることができない代物である。

しかし、命をかけて芸術を生み出そうとしている創作者(芸術家)には、常に、自分
の目の前に「鉄の壁」が見えている。創作者は、常に、「”鉄の壁”から逃げれば何
も生み出せない」という見識の下、勇気を持って、そして、頗る勇敢に、自分自身の
汗と涙で、鉄の壁を打ち砕き、やがて、次のculminationを経験する。

創作者(芸術家)に限らず、人間は皆、このような経験の繰り返しで、しっかりと
自分を磨き、自己実現を図ることが可能となるのだ。









エレガントな英語への近道は、「基礎的な英語表現」を愛し抜くこと

一般に、エレガントな英語が喋れるようになるためには、「たくさんの難しい英語表現を覚えることが第一」と考える英会話
学習者が多いでしょう。

しかし、実際、機械的に、どのように難しい英語表現を覚えたとしても、それは、単なる上辺だけの知識。機械的な暗記で
覚えた英語表現は、心にも体にも浸透しないばかりか、それらのほとんどすべては、やがて忘れてしまいます。

日本には、「難しい英語表現の暗記」に学習の重点を置く人が星の数ほどいますが、実際、私は、そうした人々が「品格の
ある、エレガントな英語」を喋れるようになったという話を聞いたことはありません。

「品格のある、エレガントな英語」が喋れるようになるためには、まず第一に、「日常で使う基礎英語、即ち、やさしい英語
表現」を、心を込めて丁寧に喋ることにエネルギーを注ぐと極めて効果的です。

私自身、英語表現で最も大切にしている言葉は、"Thank you very much."です。この言葉は、実に、幼稚園に通っている
児童、あるいは、小学生でも知っている”極めて簡単な英語表現”ですが、私は、この言葉を、長年、愛して、愛して、愛し抜
いてきています。そして、これからも、この言葉を、真心を込めて、愛し続けていきます。

エレガントな英語を話すということは、別に、たくさんの難しい英語表現を駆使することでも、難解な学問について話すというこ
とでもありません。

人の心をしっかりと掴むエレガントな英語スピーカーになるためには、一にも二にも、普段の生活で喋る言葉を、心を込めて、
丁寧に、そして、ゆっくりと喋ることがポイントとなります。

このことは、日本語での会話に置き換えて考えるとわかりやすいでしょう。思うに、早口でベラベラと喋る日本語は、聞き手に
とって、それを、心地よい日本語だと捉えることはないでしょう。

英語でも、このことは、そっくりそのまま当て嵌まります。英米でも、そして、他の国々でも、慌しくベラベラと喋る英語スピー
カーは、大抵、「この人はうるさい人だ!」「この人の話は聴いていて疲れるなー!」と思われてしまいます。

以上のような観点から述べられることは、人の心を掴むエレガントな英語は、「誰にでも理解できるやさしい英語を、
一語一語、心を込めて、丁寧に、そして、ゆっくりと喋る」というスタンスを堅持することで、それを確実に実現することができ
ます。







謙虚さは高貴である

一般に、英語という言語について、これを、「気さくな雰囲気で何でも言える言語である」という見方をする人が多いのではな
いでしょか。

例えば、日本におけるアメリカの西海岸諸州(ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州)で行われているコミュニケーショ
ンのステレオタイプなイメージは、「人々は皆、フレンドリーで、どんなことでもオープンに話せる」というものでしょう。確かに、
一面において、西海岸地域にはそうした雰囲気があるのは事実です。しかし、実際、現地の人々におけるコミュニケーション
の様相は、人(個人)によって様々な形があります。

現代社会においては、英語は、世界中で話されている言語。言うまでもなく、英語の発祥はイギリスですが、新大陸アメリカ
に移住したアングロ・サクソン人(Anglo-Saxon)が、その新大陸で自分たちの言語(英語)を喋り、そこで変化・発展し、現在
のアメリカ英語が”誕生”しました。

そうは言っても、あくまで、「英語は英語」(English is English.)。イギリス英語とアメリカ英語における語法・発音・イントネーシ
ョン等の違いはあっても、グローバルな観点から述べるならば、その違いは、言うなれば、日本語における方言(dialect)の
違いと類似したものといえるものです。

国際共通語として英語を捉えるとき、英語を話す人間に求められるコミュニケーション・スタンスは、第一に、謙虚さ(modesty)
であると考えます。この地球には様々な文明・文化があり、どのような文化圏において生活する人間に対しても、常に、相手
の文化を尊重し、謙虚な姿勢でコミュニケーションを図ろうとするところにこそ、「異文化交流における価値」が存在します。

例えば、日本人の家に外国からの友人が訪れたとき、その外国人が玄関で靴を脱がず、土足のままで居間に入ろうとした
場合、その家の人たちは、その行動を見て、一体どう感じるでしょうか。

言うまでもなく、たとえ「靴のままで居間に入る」という習慣が、その本人が自分の国にいるときには当たり前の習慣であっ
ても、一歩、文化・習慣の異なる外国に入ったならば、やはり、その国の文化・習慣に従うべきです。訪問国の文化・習慣に
従うということは、国際法上、あるいは、当該国の国内法上、何ら明確な規定があるわけではありませんが、この問題は、
まさに、「一個人におけるマナーの問題そのもの」です。

「訪問国のマナーを守る、あるいは、尊重する」、このことは、国際コミュニケーション(異文化コミュニケーション)を考える上
において大前提となる問題です。

「国が違えばマナーも違う」、これは、国と国における国民性の相違から生じる考え方です。そして今、さらに、このことを
”個人レベル”まで発展させて、「日本人と外国人」という関係にとどまるのではなく、「日本人と日本人」という関係において
考えてみましょう。

日本人と外国人の関係において、「謙虚さ」、即ち、「相手を個人として捉え、相手の存在を尊重する」というスタンスは極め
て大切ですが、このことは、「日本人と日本人の関係」においても、そっくりそのまま当て嵌まる問題なのです。即ち、この
日本で、日本人が日本人とコミュニケーションを図る上においても、「常に、相手を”個人”として捉え、個人としての相手の
存在を最大限に尊重する」というそのスタンスは、日々の仕事においても、また、プライベートにおいても、極めて重要な考え
方であるといえるものです。

コミュニケーションにおける”真髄”を考えるとき、結局のところ、「相手が何人である」ということは、それほど重要な問題では
ありません。21世紀グローバル社会で生きる私たちが注意を向けるべき観点は、様々な文明・文化・国を超越して、「常に、
相手を”一個人”として捉え、”一個人”として尊重する」という見識を備えることだと考えます。

「謙虚さは高貴である」、言い換えるならば、「謙虚さが、人とのコミュニケーションに”意味”を生じさせる」。

高貴そのものには、”実在”はありません。高貴さは、私たち人間が、自ら、自分なりの「誠意」と「献身の心」で他者と接し、
互いに接するその過程の中で、他者が、「自身の感性」を通して感じる産物なのです。







「音読」こそが威力を発揮する

イングリッシュヒルズの受講生はすべて、60分のレッスンで習ったテキストの2ページ分の会話文を、毎日、10回音読して
います。

「毎日、会話文を10回音読する」という練習方法、・・・・・これは、実にシンプルな練習方法ですが、これほど効果のある
英会話習得法はありません。ただ、イングリッシュヒルズの受講生の場合、音読といいましても、”単なる音読”ではありませ
ん。イングリッシュヒルズが受講生に宿題として出している音読とは、以下の重要ポイントをしっかりと踏まえて行う音読で
す。

それらの重要ポイントは、以下の通りです。

   1 60分のレッスンにおいて、講師が一体どのようにテキストの会話文を喋っていたのかを思い出しながら、
     講師が喋った英語を、できるだけ”そっくりそのままの形”で真似をして音読する

   2 会話文のストーリーを頭の中で思い浮かべ、自分もその当事者として音読する

   3 音読する際には、講師の発音・アクセント・イントネーションだけでなく、間(interval in time)の取り方、呼吸法、
     話すスピードの調整、顔の表情などを頭に思い浮かべて、ステージに立つ役者(performer)になったつもりで音読
     する

   4 音読するとき、声だけで音読するのではなく、身振り・手振りも添えて、できるだけダイナミックに音読する

英語を自分の心と体に入れ、借り物ではなく、本当の自分の言葉として英語が喋れるようになるには、一にも二にも、レッス
ンとレッスンの間の一週間において、自分なりに上記の法則に従った音読の練習を重ねることが最も効果的です。

この世で、最も威力を発揮する学習とは、言うまでなく、「経験」(experience)です。講師は、60分のレッスンにおいて喋る
すべての英語を、受講生にとって最も印象深い経験・実体験となるべく、真心を込めて、そして、頗る丁寧に喋るよう、常に、
120パーセントのエネルギーを使ってレッスンを行っています。

講師として、すべての受講生に望むことは、毎回、一つひとつ、講師が120パーセントのエネルギーを使って喋った
一語一語の英語を、次のレッスンまでの一週間の間、自分なりにしっかりと反復練習していただきたいということです。

テキストの会話文の音読はもちろんのこと、それに加えて、レッスン中の会話で講師が使った英語表現・単語など、自分なり
に丁寧にノートに整理し、整理した後は、毎日、何度も何度も繰り返し音読することが、「生きた英語」を心と体に浸透させる
最も近い道のりとなります。

講師は、レッスンにおいて、スラング(隠語)は一切使いません。日本では、特に若い世代の英語学習者において、「スラン
グをスピーディに喋るとカッコいい」と捉える傾向にありますが、実際、スラングを喋ることは、極めて”カッコわるい”ことです。

このことは、日本語に置き換えてみるとわかりやすいでしょう。日本語で、「てめー、覚えてろ!」などどいう下品な言葉を
発する日本人に対して、一体どこの誰が、”カッコいい”と思うでしょうか。

日本社会では、アメリカ・ハリウッドのバイオレンス(アクション)映画の中で演じる役者の英語に憧れを持つ若者が非常に多
いというのが実情ですが、映画の中で役者が喋るスラングやマナー不在の英語は、実際のところ、(現実社会における)ビジ
ネスはおろか、プライベートにおける会話においても、ほとんど使えない英語です。

国際的教養・品格を備えた英日バイリンガルとして英語を喋るには、「国際社会で通用する、常識・モラル意識・マナーが
存在する英語」を学ぶことが必要不可欠です。イングリッシュヒルズでは、すべてのレッスンにおいて、それぞれの受講生の
英語力・基礎学力・人生経験等に応じた方法で、段階を踏みながら、少しずつ、頗る丁寧に、「品格のある、エレガントな
英語」が習得することができるよう、常に細心の注意を払いながらレッスンが行われています。







「一秒の価値」がわかる人が、トップリーダーになれる

毎日、深い思索をすることなく、ただ何となく時間を過ごしてしまっている人は、なかなか時間の価値について理解することは
難しいでしょう。

私は、毎日、"There is no tomorrow."(明日はない)と自分に言い聞かせながら生きています。

「明日はない?」、この文章を読む人は、さぞ、不可思議に思うに違いありません。無論、明日という日は、よほどの緊急事
態が起きない限りやってきます。しかし、緊急事態というものは、何ら、予告されることなく、”極めて緊急に”やってきます。

今現在、健康な状態で時間を過ごしていても、突然、体に異変が生じ、”我慢の域”を超えるほどの、途轍もない痛みに襲わ
れるかもしれません。あるいは、今、お腹が空いたので、道路向かいのお店にパンを買いに行こうとしたとき、不注意な車が
猛スピードでやってきて、道路を横断中、その車にひかれて即死してしまうかもしれません。

以上のように、緊急事態とは、まさに、予期することなく、”極めて緊急に”、”極めて突発的に”その事態が起こるのです。
私たち人間の人生においては、何ら、”完全な保障”、”完全無欠な安全”というものはないのです。

私自身、これまでの人生において、そうした緊急事態に遭遇した経験があります。無論、緊急事態が頻繁に起こることはあ
りませんが、それでも、これまでの人生において、いくつかの”極めて緊急な事態”に遭遇し、そのつど、自分の「無知さ」
「愚かさ」、ひいては、人間存在の「はかなさ」「虚しさ」についてしみじみと考えたものです。

前述の観点を基盤として思索することにより、私たち人間は、「今現在、生きている」という自分自身における有様について、
極めて真摯的に、そして、厳粛に捉えることができます。

即ち、「人間が、今、生きている」という事実は、決して当たり前の事実ではなく、私たち人間は、「いつ何時、どのような緊急
事態が起こるかわからない未知の状態」で生きているのです。このことを踏まえて言えることは、私たち人間は、「今現在の
自分の”生”」について深く感謝し、一秒一秒しっかりと刻んでいる「その一瞬・一瞬」について、最大の注意を払うべきである
ということです。

今、刻むことができる一秒一秒は、決して、当たり前の一秒ではありません。私たちが、今、この一秒をしっかりと刻むことが
できる唯一の理由は、「今現在、”一個の存在者”として空気を吸い、”一個の存在者”として生きていられる」からです。

"There is no tomorrow."(明日はない)、即ち、「今日の、”この日”において、一秒一秒しっかりと生きていくことが最も重要
である」という意味が、この言葉の背景にあるのです。

「明日はない」と自分に言い聞かせれば、今日できることを明日に延ばすことなく、今日やるべきことを今日のうちにやろうと
と考えるものです。結局、人間の人生は、やるべきことを「やるか・やらないか」で、その行く末が決まるのだと思います。

私自身、これまでの人生において、国内外で、学術、政治・経済(ビジネス)、文化、芸術等、世界中のトップリーダーと接し
てきた経験から達観したことは、国際的に活躍するトップリーダーは、大抵、「時間の価値」がわかる人であるということで
す。

人の上に立つ器量のある人は、大抵、「時間の貴重さ」、とりわけ、「一秒一秒の重み」を深く理解しています。なぜならば、
物事を達成するそのプロセスにおいて、自分を取り巻く周囲の人々の心を掴むには、「それぞれの相手と過ごす時間的空間
における一秒一秒」を大切にすることこそが、極めて重要なことであるからです。

言語が何語であっても、接する相手との会話において、お互いの呼吸を合わせてより良いコミュニケーションを図っていくた
めには、「お互いの会話における一秒一秒」に対して細心の注意を払い、”一秒一秒”を刻むように自分の言葉を発し、一方
では、相手が発する言葉も、”一秒一秒”しっかりと刻みながら、それを心で受け取るということが肝要となります。

「コミュニケーションは一秒一秒が勝負どころ」。このことは、どのような国でどのような言語を喋ろうとも、常に共通する考え
方です。







真の国際コミュニケーターへの道

国際コミュニケーターとは、単に、「外国人と英語でコミュニケーションを図る人」という様相を指すわけではありません。もちろ
ん、国際コミュニケーターになるために英語を熱心に学び、流暢に英語が喋れるようになることは、決して間違った方向性で
はないでしょう。

ここで一つ、大切な問題について触れたいと思います。それは、日本人が、英語そのものをどのように学んでも、その本人
が、「コミュニケーションとは何か」、「人間は一体いかなる理由で他者とコミュニケーションを図るのか」、ひいては、「より良
いコミュニケーションとは一体どのようなコミュニケーションを指すのであろうか」という問題について考えることなくして、真の
国際コミュニケーターにはなり得ないということです。

国際コミュニケーションという概念を考えるとき、まず第一に、「”人間存在”そのもの」の問題について考える必要があるで
しょう。言うまでもなく、私たち人間は、「一個の”個”」そのものです。この地球上において、どれだけ多くの人間が存在して
いようとも、人間は、それぞれが「一個の”個”」なのです。

「一個の”個”」、さらに噛み砕いて述べるならば、人間は、それぞれ、「一個の”個人”」です。コミュニケーションは、「個人と
個人における”交じり合い”」を指す概念です。そして、その個人と個人の交じり合いにおいて、接するその相手が何人である
か、即ち、コミュニケーションを図る相手の国籍、人種、民族、文化、習慣などを所以(ゆえん)として何らかの偏見・差別感を
持つことは、”極めて非理性的”と言わざるを得ません。

個人と個人におけるコミュニケーションをどう捉えるか、人間は、この問題について、自分自身を、”地球的規模”、あるい
は、”人類”という観点から広範囲に捉えることができたとき、「真の国際コミュニケーターの道のり」についてしっかりと考え
ることができるようになります。

そもそも、英語という言語は、コミュニケーションを図る相手が、英語を理解できる場合にのみ役に立つ言語です。言うまでも
なく、世界史の潮流の恩恵を受けた英語は、現在、間違いなく、”国際共通語としての位置づけ”を保っています。しかし、
言語としての英語そもののを流暢に話せても、その本人において、必要十分な国際的教養・見識、良心、品格、品性等を備
えていなければ、その人を即、国際コミュニケーターとみなすことは決して妥当な見方とはいえません。














世の中には、物事をたくさん知っている人がいます。本や雑誌、新聞、あるいは、インターネットを通して、様々な知識・情報・
データを得る人は大勢います。しかし、ものを知っていても、「それをどのように活用し、どのように社会やコミュニティーのた
めに役立てるか」について深く考える人はそう多くはないと思います。

概して、普通の教育を受けた人ならば、言語上の語彙として、「知識」(knowledge)・「教養」(culture)という言葉は知っている
ものです。しかし、実際問題として、これら二つの概念について、それらをしっかりと把握し、十分に理解している人は少ない
と想像します。

冒頭で述べた内容と関連付けながら説明すると、知識とは、「単にものを知っている」ということです。つまり、これは、知ろう
とするプロセスを通過して得た情報、データそのものを指す言葉です。一方、教養とは、既に得た情報・データなどについて、
それらを、他者やコミュニティー、さらには社会一般の「幸福」(happiness)や「利益」(benefit)を実現するために役立てるため
の知恵(wisdom; intelligence)を意味する言葉です。

少し深い話をすると、英語では「文化」をcultureと呼びますが、同時に、このcultureという言葉は「教養」という意味を持ちま
す。言うまでもなく、世界に存する様々な「文化」、あるいは、「知」(sophia、ギリシア語で”知”、”英知”を意味する)を面前と
し、その「精髄」「真髄」(the quintessence; the essence)に触れるためには、それなりの「教養」(culture; cultivation)を備え
ていることが必要となります。これをわかりやすく言うならば、英語の世界では、cultureという言葉は、文化であると同時に
教養という概念を意味する言葉なのです。

「知っている」ということと、「役立てる」ということことは、根本的に異なる概念です。このような観点を踏まえて述べられること
は、皆さんが学んでいる英会話も、ただ単に、知識として覚えるだけでなく、

   何らかの目的を果たすため、
   さらには、自分だけの利益追求のために英会話を学ぶのではなく、”他者の幸福実現の一助”

になるべく、「人類愛の実践」という国際的な観点から、”国際共通語としての英語”を学んでいただきたいということです。



■ご参考
古代ギリシアの哲学者・ソクラテスの「無知の知」

概して、人間という動物は、少しばかり何かを学び、それによってある程度の評価を得ると、さぞたくさん知っているかの
ように人前で振舞いたくなる習性を持っているといえる。言うまでもなく、どんな分野においても、ある程度まで極めるた
めの「学びの道」を歩むというそのプロセスは決して簡単なものではない。だが、人間は、時として、実に愚かな考え方を
する。「自分には限られた知識しかない」という事実は自分自身が一番良く知っている事実であるが、どんな人間でも、
時には「自分は何でも知っている」というような“錯覚”に陥ることがある。しかし、「自分は何でも知っている」ということを
軽々しく言えるということは、「実は何も知らない」あるいは「知ってはいるが、実はそこそこに知っているだけだ」という証
となってしまう。

古代ギリシア時代における偉大な哲学者、ソクラテス(Sokrates, 470?-399 B.C.)は、「知」を愛し、「知」を求めることに
自分の人生を託した。古代ギリシア語においては、「哲学」(philosophia)という言葉は、「知」(sophia)を「愛する」(philein)
という意味であるが、このような”知を愛すること”、即ち「愛知」はソクラテスによって確立されたものであると伝えられて
いる。ソクラテスは、「助産術」と呼ばれる問答方式で周囲のソフィストたちに本当の「知」を認識させることに努めた。
しかし、ソフィストたちは自分たちの無知をソクラテスによって悟らされてしまうため、自己反省のできない者達からは
ひどく嫌われた。ソフィストの中には、少しばかりの知識があるだけで、さぞ自分が“偉い人物”であるかのような錯覚に
陥り、自分自身に対するプライドばかりが高い人物が多かった。当時のギリシアでは学問をするというのは贅沢なことで
あったので、大衆は“学問をする人”を敬う傾向が強かったが、ソフィストといえども決して万能な存在者ではない。ある
程度、学問を修めたとしても、その知識は決して万能なものではない。

ソクラテスは、「自分は何でも知っている」と自負する者は、実は「何も知らない者」であり、人間は、自らをそう思ってい
る間は、決して「真の知」には到達できないと力説した。「“自分は本当は何も知らない”という自分自身の“無知”に気づ
くことが真の知への扉の前に立つことである」というこの考え方は、古代ギリシア時代のみではなく、この、21世紀の
現代社会においても十分応用できる考え方である。











           英会話道場イングリッシュヒルズは、
           「公平無私な学問の精神」を基盤として、英語で、国際的教養を養うことをティーチングミッションとする教室です。



イタリアのルネサンス期の画家・ラファエロ(Raffaello Santi, 1483-1520)がバチカン宮殿に描いた「アテネの学堂」
(Scuola d'Atene)の壁画の中央には、プラトンとアリストテレスが描かれている。天を指してイデア界を示している
のがプラトン、その隣で、手のひらを下にして現実の世界を重視しなければならないと説いているのはアリストテレ
スである。英会話道場イングリッシュヒルズ・銀座書斎においては、この「アテネの学堂」が置かれており、西洋に
おける学問の基礎を築いたプラトンとアリストテレスが、常に、イングリッシュヒルズの受講生を見守っている。

講師・生井利幸は、長年、アメリカのペンシルベニア州ラフィエット大学講師を歴任。帰国後は、生井利幸事務所を
設立。国際派作家として多分野にわたって本の執筆に取り組む一方、全国各地で講演会を開催。

後に、この日本で、国際的に活躍できる「教養人」(cultured person)を育てるために、日本における新進気鋭の
文化・芸術が集結する東京・銀座に、プラトンのアカデメイア学園の「学問の精神」を基盤とする教室、即ち、
英会話道場イングリッシュヒルズを創立。銀座書斎において、創立者である生井利幸が自ら、一般社会人を対象と
して英会話レッスンを行っている。

イングリッシュヒルズの英会話レッスンは、単なる会話の技術的レッスンにとどまるだけでなく、英語で、国際的に
幅広く活躍するための教養・見識を養うことを主眼としている。そのため、イングリッシュヒルズは、グローバルな
視野を持って、”日々変動する国際社会”に目を向ける一般社会人の”学びの場”となっている。

現在、イングリッシュヒルズの通常レッスンはすべてプライベートレッスン(完全個人指導)。元米国大学講師、
国内外でトップレベルの英日バイリンガル講師・生井利幸が直接、一人ひとりの受講生としっかりと向き合って、
懇切丁寧に英会話レッスンを行っている。

イングリッシュヒルズは、”公平無私な学問の精神”を基盤として、受講生の学習意欲を劇的に向上させ、
受講生自身の英語力を飛躍的に伸ばす驚異の教授法を駆使する未曾有の教室である。








       
       


         2012年9月30日(日)、英会話道場イングリッシュヒルズのウェブサイトは、全面リニューアルを行いました。
         新ウェブサイトは、以下をクリックするとご覧いただけます。