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真のエレガンスへの道・・・マナーとデリカシーにおける相違

一般的に、国際人として大きく成長を遂げる上で重要な要素の一つとして考えられていることは、「国際社会で通用するマナーを身に付ける」ということです。日本には、マナーを教える学校が多数あります。マナーは、無論、他者の面前で妥当な振舞い方をする上で必要なものでしょう。しかし、実際、現実の国際コミュニケーションにおいて、”マナーそのもの”が妥当な方法で実行されても、それだけで、目の前の相手とのコミュニケーションがスムーズになるとは言えません。本稿では、「原点に戻る」という意味で、ここで再度、「マナー」について考えてみたいと思います。

人間コミュニケーションにおける「マナー」(manner)とは、本来、振舞い方、態度、行儀、作法、習慣等を指しますが、それらは、必ずしも、”世界共通のもの”であるわけではなく、通常は、特定の国、地域、文化圏において行われるものです。具体的に述べるならば、西洋文明社会で言うならば、イタリアにはイタリアのマナーが存在し、イギリスにはイギリスのマナーが存在します。一方、東洋文明社会においては、中国には中国のマナー、インドネシアにはインドネシアのマナー、そして、言うまでもなく、日本には日本のマナーが存在します。つまり、今ここでマナーについて厳密に述べるならば、「特定のマナー」が行われるその物理的空間とは、通常は、「限られた場所」(特定の国、地域、文化圏等)であるわけです。では、「品格のあるエレガントな英語」の習得を目指す皆さんにおいては、マナーを学ぶことに加え、世界に通用する国際人として自分を磨いていく上で一体何が必要となるのでしょうか。それは、「人間としての”デリカシー”を磨く」ということです。

「デリカシー」(delicacy)とは、優雅さ、繊細さ、優美、思いやり、心遣い等を指します。デリカシーとは、総じて、「他者の感情、あるいは、感覚との接触における”細やかな気づき・心配り”」について指すものであり、これはまさに、「世界に存する文明・文化を超越して存在する”人間としての繊細な感覚”」と言えるものです。概して、”国際人”を目指す人々は、”目に見える作法としてのマナー”にばかり目を奪われ、より重要とされるべきもの、即ち、「デリカシーの重要性」に対して盲目になる傾向にあります(実際、教育機関においても、詳細にわたってデリカシーの重要性を教える学校は皆無に等しいでしょう)。

デリカシーとは、私の定義では、「地球に存する一個の個人として備えるべき、”他者の感情・感覚との接触における細やかな気づき・心配り”」であり、それは、決して目に見えるものではなく、(1)「自分の理性・感性」と(2)「他者の理性・感性」との相互コミュニケーションにおいてお互いに感じ取ることができる”極めて繊細な代物”です。デリカシーは、まさに、特定の国・地域・文化圏等に関係なく、一個の個人として養い、現実の生活において、日々実行していくべき「人間コミュニケーションにおける”真髄”」(the “quintessence” of human communication)と言えるものなのです。

私たちは、日々の生活において、しばしば、「マナーは申し分ないが、デリカシーに欠ける」という人を見かけます。マナーとは、”単に上辺だけ上品に振舞えばそれで十分”というわけではありません。言うまでもなく、自分の目の前に存在する相手に対する細やかな気づき・心配り(デリカシー)がなくして、「真の意味での”エレガンス”(優雅、優美、品格)」を実現することは不可能となります。今ここで再度、迎える一日一日において真の意味で価値ある人間コミュニケーションを図っていくという「”理性的”大前提」(“rational” major premise)の下、再度、「マナーとデリカシーにおける相違」(the difference between the two, manner and delicacy)について深い思索を試みてください。深い思索を試みることにより、やがて、「人間コミュニケーションにおける”理想郷”」(“utopia” of human communication)の境地に到達することができます。